山田五十鈴さんが「人民女優」と騒がれた時期があった。1950年ごろのことだ。東宝所属だった山田さんは、占領軍の弾圧による東宝大争議を、スター女優として距離をもってみていたが、戦車まで動員された撮影所仮処分のニュース映像には、「働くものとして共通のいきどおりを感じた(『山田五十鈴 えいがとともに』)。

 フリーとなった彼女は」、今井正の「どっこい生きてる」を見て、今までの大会社のようなやり方とは違う映画の作りかたがあるのかと感動。そういう映画への出演を希望し、夕張の炭鉱労働者と3ヶ月も暮らした「女ひとり大地をゆく」(亀井文夫監督)では選炭婦役に。手ぬぐいをかぶり腰に手をあてすっくと立つ宣伝写真が強烈な印象だ。

 そのころ映画界にもレッドパージが波及、新聞には「映画界でも赤追放」「約200名か 映画界の追放」の見出しがおどり、山田五十鈴さんもその対象になった。後に演劇界に転進していくが、映画界での経験はその後の役者人生の土台となったようだ。

 「赤旗」日曜版「とっておき十話」(92年)に登場した山田さんは「役者として労働者として、今が山場と思い舞台にたち続けるつもりです」。と言葉を結んだ。謹んで哀悼の意を表したい。
【2012年7月16日付しんぶん赤旗に掲載