戦前のプロレタリア文学作家、日本共産党員だった小林多喜二が特高警察に捕まり、その日のうちに築地警察で虐殺されたのは1933年2月20日です。薄曇りの寒い日だったといいます。▼文学、党活動の両方で多喜二と行動を共にした手塚英孝が、彼の言葉を伝えています。「書く人は沢山いるよ、だが、皆、手の先か、体のどこかで書いている」「誰か、体全体でぶっつかって、やる奴はいないかなあ」(「小林多喜二の思い出」)▼北の荒海で奴隷のように働かされる労働者の悲惨さと決起を描いた多喜二の「蟹工船」は80年以上の時を超えて、非正規雇用や低賃金に苦しむ現代の若者から共感を集めています。対象に全身でぶつかったからこそ書けた作品です。▼北海道小樽市で21日から小林多喜二国際シンポジウムも開かれます。多喜二が4歳だった1907年末、一家は秋田から小樽に移住しました。当時、石川啄木もこの町で暮らしていました。新聞編集の仕事に挫折した後、社会主義に関する演説会に参加し、感動を日記にしるしています。▼「こころよく・我にはたらく仕事あれ・それを仕遂げて死なむと思う」。小樽公園にある碑に刻まれた啄木の歌です。命がけでできる仕事を求める思いが痛いほどです。▼今年は啄木没後100年、来年は多喜二没後80年です。社会主義に未来を見出しつつ貧苦に倒れた啄木。日本共産党として活動中に殺された多喜二。2人の志を受け継いで歴史を前へ動かすのは21世紀に生きる渡したちです。
【2012年2月20日付「しんぶん赤旗」】