閣僚経験のある自民党のベテラン議員は「自民党にとって原子力発電とは、経済発展の中核だった」と述懐しています。1956年1月に「原子力開発利用長期基本計画」を決定すると、1980年には3200万㌔㍗、1985年には6000万㌔㍗、1990年には1億㌔㍗という驚異的な数値を目標にし、“一瀉千里”で原発建設計画を進めます。つまり、日本では現在、17ヶ所に54基の原発が集中立地されていますが、当時の計画では40ヶ所に130基もの原発を建設することをもくろんだのです。

しかし、原発の建設が始まると、すぐさま全国で立地反対運動が大きく広がり、田中角栄氏の地元の新潟県刈羽原発をめぐっても住民投票で建設反対が圧倒的多数を占めます。まさに、この時、登場したのが「電源3法」で、74年6月、田中内閣時代に導入されました。電源3法は、原発立地市町村にたいし、交付金や補助金を出すためのもの。財源となる促進税は電力会社に課税されますが、、それは電機料金に転嫁されるため、実質的な税の負担者は国民です。法制定をめぐり強力なイニシアチブを発揮したのは田中氏でした。

電源3法は、過疎などで財政の厳しい自治体につけ込む、「住民の頬(ほお)を札束でたたく」式の“懐柔”でした。しかも、建設から10年もすれば交付金が激減するため、「ハコモノ」の維持・管理費を捻出するためにも、2基、3基へと原発増設を受け入れざるを得ない仕組みとなっているのです。海外メディアも「政府補助金の巧妙な制度をつくったのは、日本の原子力の展望を形づくった強力な田中角栄首相であった」「払われた税金は、原発立地自治体に流しこまれた」(「ニューヨーク・タイムズ」5月30日付)と書いたように、その後の原発増設の“エンジン”の役割を果たしてきました。

以上のように「電源3法」は、自民党が自治体への交付金や補助金をエサに原発建設をすすめるとともに、強力な支配基盤をつくるために利用されました。しかし、これだけ莫大な税金をつぎ込みながら、安全対策は初めからなおざりでした。このことをしっかり肝(きも)に命じておくことが肝要です。