日本航空のジャンボ機が御巣鷹の尾根に墜落した1985年の事故から12日で26年。当時、日航乗員組合の委員長で、現在、空の安全を脅かす日航の不当解雇撤回を求める裁判をたたかっている機長の山口宏弥原告団長(59)の談話を紹介します。「しんぶん赤旗」13日付に掲載。 米 長文ですが、ぜひ、お読みください。

私は、1985年8月1日、日本航空乗員組合の委員長に就任しました。それからわずか12日で御巣鷹事故が起こりました。事故当日、私は実家にいました。薄暗くなったころ、テレビに「日航機レーダーから消える」のテロップが出ました。急いで羽田に行って、緊急3役会議を開いて、執行委員に現場に急行してもらいました。。事故後は労働組合の責任として、事故原因の究明と再発防止を求め、団体交渉や対政府要請を何度も行ってきました。

当時、事故を起こしたボーイング747型ジャンボ機には「安全神話」がありました。「ジャンボ機には二重三重の対策があるから、絶対に堕ちない」と宣伝されていました。さらに、当時会社は「もうかる整備」と言い出していました。事故直前の7月の社内報には「もうかる整備」が特集され、利益優先、整備現場の意識転換を求めていました。「安全神話」をうのみにして、利益優先にしてはいけない。それには、労働者が自由にモノをいえる職場が必要なんです。

日航では当時、機長は名目上「管理職」にさせられ、組合活動が認められないという不当な扱いを受けていました。操縦室の中で、機長と副操縦士は上司と部下の関係なので、自由に話し合う雰囲気はありませんでした。御巣鷹事故の3年前の82年には、羽田沖事故がありました。当該機長は機長昇格の際、上司から同僚の乗員組合役員の情報を提供するよう求められるなどで、悩み、変調をきたしていました。事故を起こさないためには、機長も組合活動が必要だと、職場で声が広がりました。

御巣鷹事故後に副会長となった伊藤淳二さん(後に会長)と話し合いました。忘れもしない86年2月19日です。伊藤さんに「何か要望はありますか」と聞かれ、私は、乗員組合委員長として「機長の組合活動を認めてほしい。操縦室に一体感がない。垣根がある。自由闊達に話し合うには、労働組合が必要です」と訴えました。伊藤さんは「結構です。機長会が労働組合として活動をしたいのなら尊重します」と答え、労働条件の切り下げなしで、組合活動を認めました。飛び上がるくらいうれしかったのを覚えています。こうやって労働組合は、労働者同士の信頼関係を築き、空の安全を守る職場環境をつくっていきました。

ところが、いまの日航は、労働者の団結に平気で手を突っ込んできています。その最大のものが昨年末の整理解雇の強行です。安全を守るための航空身体検査で乗務を休んだ人が解雇対象になったので、パイロットは自分の体調を正直に自己申告しにくくなりました。ベテランの解雇で、若手パイロットも将来展望がもてず、安心して乗務できない状態です。何より、御巣鷹事故を知る世代から、経験と技術を継承できなくなってしまいました。

稲盛会長は、「利益なくして安全なし」「『御巣鷹山』がトラウマに」という見出しで雑誌インタビューに答えています。別の雑誌では、航空機1便ごとに採算意識を持たせるとまで言っていますが、これは安全上大きな問題があります。たとえば、気象状況が悪いとき、「引き換えしたら燃料費の損害になる」などと採算優先で、無理に着陸しようとしたら、判断を誤る可能性があります。だから組合は、パイロットの判断を尊重し、安全運転に専念できるよう会社の圧力から守ってきました。

今回の解雇強行をこのまま許し、「解雇自由」にしてしまえば、労働者は会社に対して意見が言えなくなります。現在、日航を解雇されたパイロットと客室乗務員165人のうち148人が原告となって、解雇撤回裁判をたたかっています。

9月30日の客室乗務員の口頭弁論では、「(解雇した)160名を残すことが不可能ではない」と解雇に必要性がなかったことを認める発言をしている稲盛会長への証人尋問が実現します。空の安全を守るため、何としても裁判に勝利し、職場復帰を果たしたいと思います。