昨日・1月2日、大阪に住む私の叔父から、大きな封筒が郵送されてきた。以前から約束していた「ゆたかの出生の記録」だった。私の母が生前に話してくれた内容と重なるが、非常に克明で衝撃的だった。

 私は、昭和20年の4月7日生まれである。実家のあった名古屋の町は、すでにアメリカの本土空襲の危機が近づいており、ほとんどの住民は疎開先に逃げてい た。松下の家にいた4人も難を逃れて、三重県四日市の知人のお寺に疎開していた。私は、そのお寺で生まれたが、産婆さんを探しても見つからず、陣痛で苦し む母を乳母車に乗せて走り回った。最後に出会った先生が引き受けてくれた直後に、「おぎゃー」という逞しい産声をあげて生まれたのが「私」だったそうであ る。

 疎開先のお寺で、私が生まれて2ヵ月後に、アメリカのB-29という爆撃機が本土爆撃を開始し、ひとたまりもなかった。名古屋の市街地が全焼して間もなく、三重県のお寺も焼け出された。

 昭和20年6月18日の未明、午前1時38分。空襲警報が鳴り響き、いきなりお寺の本堂の軒先に焼夷弾が大音響とともに落ちて、火の海になった。家族バラ バラに逃げた。生後2ヶ月の私をおんぶして逃げたのは母であった。火の海を逃げてグッタリする赤ん坊。バケツの水をかぶせられ「ふっー」と息をついて、生 きていることを確認したら、また逃げる。母子と再開した叔父は「よく生きていた」と叫んだ。特に、「のどもやられず」「目もやられず」生きていたことに驚 いている。

 私は、生まれて65年ぶりの昨日、叔父から郵送されてきた手紙で、出生の秘話を知った。火の粉と熱風と煙の中を逃げまわって助かったことを。あの忌まわし い戦争の最後の最後に、B-29の絨毯(じゅうたん)爆撃で「命」を奪われそうになり、それでも救われたのである。まさに“九死に一生”で助かった尊い 「命」であったことを実感した。