16年前の1月17日・未明、大きなニュースが飛び込んできた。私は、2ヵ月後の県議選の予定候補として活動していたが、当日は早朝の駅頭宣伝に向かう直前だった。


 私は、テレビに釘付けになったが、事態の深刻さを飲み込むようにして、駅頭で訴えた。いまでも、心配そうな顔をして立ち止まって聞く人の顔を忘れられない。

 共産党本部は、その日のうちに「緊急支援」を全国に呼びかけた。私は、目前の選挙が心配だったが、緊急支援行動に応募して現地に向かった。毛布などの寝具 や衣料品、食料品をトラックに積み込んで、交代で運転して東名高速道路を西に向かった。真夜中の東名高速は、大型トラックばかりで猛スピードで走ってい る。本当に怖かったことを思い出す。


 兵庫県の西宮市で目にしたものは、戦争の廃墟のような町だった。横倒しになった阪神高速道路、全焼した家々と半壊の家に残って放心状態で泣き崩れている老夫婦など、はっきりと記憶がよみがえってくる。

 私は、救援直後の県議選で幸いにも初当選を果たすことができた。初議会では、やはり耐震問題が焦点になっていたが、私は体験談を報告して、高速道路や校舎 などの耐震対策を強くもとめた。特に、強度が心配だった大宮駅・北側に架かっている大栄橋については、耐震診断をして補強するように指摘した。その後、大 栄橋は改修工事が実施された。

 学校校舎の耐震診断・補強が叫ばれて久しいが、財源を理由に年々後退している。私は、もう一度県議会に復帰して、“地震に強い埼玉県”をつくるために、力を尽くしたい。