前回のつづき

聖書の学び144《ルカ41:31〜》

31,また、どんな王でも、他の王と戦いを交えようとする時は、2万人を引き連れて向かってくる敵を、1万で迎え撃つことができるかどうかを、まずすわって、考えずにいられましょうか。

ここでは王が戦いをしようとしている。相手は自分の倍いるのだ。そしたらどうしようかと考えるだろう。考えない者はいない。なぜイエス様がこのような話をするかと言うと、ある王様が無謀な戦争で負けたのだ。それがヘロデアンティパスだ。何の戦いだったかと言うと、ヘロデアンティパスには元々奥さんがいた。ヘロデアンティパスはヘロデヤと結婚するために相当な努力をした。捨てられた元奥さんは国に帰った。元奥さんはアラビアの有名な王様の娘だった。そこも軍事的に強い国だった。娘が帰られたことにお父さんは怒る。怒ってヘロデアンティパスを攻撃した。それでヘロデは負けてしまった。これでヘロデは相当力を失った。みんなそういう話をよく知っている。「ヘロデは馬鹿だよな。戦争をする前によく考えて、なにかやれば良かったのに。」。このように思っていた。イエス様がここで言いたいのが、「犠牲を計算しなさいよ。中途半端ではできません。」ということ。つまりこれまでの話は、全て中途半端な話。基礎を造ったけれども、建たない。一万人がいるんだけれども、役に立たない。中途半端ではできないよということ。

33,そういうわけで、あなた方は誰でも、自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子になることはできません。

 これは物質のことではない。すべての犠牲を計算しないではという意味。ここでなぜ財産と言っているかというと、敵と戦うには全ての財産を投入しないと駄目だったからだ。だから財産。今聞いている人たちの中に王様がいるわけではなく、普通の人々だから財産ということはを使った。あなたの全部をもって、それでもやるのか、ということ。信者というだけでなく、弟子になるか?ということ。弟子として生きることをしっかり理解し、そのことをしっかり考えなさいということ。自分の人生を考えてきちんと弟子としてイエス様に仕えることができるかを考えなさい。きちんと計算しなければいけない。

そして今まで話してきたことの結論が、34節から。これが答え。

34,ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。
35,土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

 これは弟子の性質について言っている。弟子の性質というのは何と同じか?塩。ではどういう意味か?ユダヤでは「塩の契約」というものがずっとある。
 第二歴代史13章5節
 イスラエルの神、主が、イスラエルの王国をとこしえにダビデに与えられたこと、すなわち塩の契約をもって、彼とその子らとに与えられたことは、あなた方も知らないはずはあるまい。
 
 ユダヤ人は塩に対してしっかりとしたイメージを持っている。ここで何を言っているかと言うと、性質について語っている。ダビデ契約とはどういう性質を持っているかと言うと、「塩」の性質なのだ。「塩」とは、、"変わらない"という意味。塩は塩。塩は砂糖にはならない。塩はずっと塩だ。神様は、この契約はずっと変わらないと言っているのだ。彼らにとって塩とは、変わらないということと、生きるための必需品。ダビデ契約というのも、彼らが生きていくためには必需品。そしてこの契約は永遠変わらない。塩も永遠に変わらない。変わらないということは、これを結ぶ者同士は、ずっと続いていくということ。だからダビデは死んでいないということ。結んだ者同士は、ずっとその関係を持ち続けている。ユダヤではそのことを表すために、二人で食事会をする。親密という意味。塩の契約の食事として、親密なお互いの食事会をする。仕事や売買などで塩の契約を結ぶ。裏切らない。この契約はとこしえまでも続く。二代三代と続くという意味。そして塩の食事をする。

34,ですから、塩は良いものですが、もしその塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。

 塩は永遠。変わらない。しかしなぜ塩が塩気をなくすのか?意味が分からない。これは当時の塩が何かわからないといけない。当時イスラエルで使われていた塩は岩塩だ。岩塩には不純物がめちゃくちゃに多い。それを塩として売っている。今のさらさらしたような塩ではない。当時のイスラエルは湿度も高いから岩の間の塩が溶けてしまう。だから結局岩だけ残ってしまう。表面的にはみんなこれは岩塩だと思っている。しかし本質は塩がもうすでになくなってしまっている。このようなことを言っているのだ。『塩は良いものですが、』というのは、真の弟子のこと。真の弟子は、簡単に言ったら良いということ。『もしその塩が塩気をなくしたら、』というのは、表面的な弟子のこと。表面的な弟子は内面がない。本質や性質がないのだ。

35,土地にも肥やしにも役立たず、外に投げ捨てられてしまいます。聞く耳のある人は聞きなさい。」

 「土地にも肥やしにも役立たず、」というのは塩が溶けているから、岩塩のある土地は畑に向かない。「外に投げ捨てられてしまいます。」というのは、投げると人々に踏まれる。塩が塩気をなくしたら、人に踏まれるだけのものになる。つまり馬鹿にされる意味。信仰者と言いながら、弟子と言いながら、こんな程度なのかと言われる。それがこの意味。弟子道。

 イエス様が言っているのは、救われるだけのレベルとは違う。救いに至る道と、弟子道とは違うのだ。救いに至る道とは、全ての人に与えられている。恵みにより、信仰による。弟子道は救われる条件ではないし、弟子道を行ったからといって、地上生涯で祝福される保証ではない。塩気をなくして捨てられるというのも、救いがなくなるということではない。弟子道を行ってもらいたいと、イエス様はすべてのクリスチャンに思っている。しかし弟子の道を行けないクリスチャンも確かにいる。すると、厳しく言うと未信者は、そこまでなのか、と思ってしまうということ。いいことを言いながら、そこまでなのか、と偽善者のように思ってしまう。全員が全員、真の弟子になることはないが、イエス様がなぜ本当の弟子になってもらいたいと思っているかというと、弟子たちにすごい塩気を持った弟子になってもらいたいという気持ちがあるからだ。人々が弟子に触れると、凄い塩気に気づいてもらいたいのだ。イエス様は、ただ単に救われればいいだけだと思っているわけではないのだ。塩気を持って欲しいのだ。そのためにイエス様から学び、イエス様の生き方を生きてほしい。そうすると弟子たちはものすごいイエス様の影響力を人々に与えることができるようになる。逆に本当の弟子が増えないと、人々からはそんなもんなんだ、と思われてしまう。どれだけ塩気がある人が多いかによって、クリスチャンはそういう人たちなのかと思ってもらう率が高くなる。
 イエス様は計算しろと言っているので、自分がどこまで真の弟子としてやれるのか、計算しなければいけない。見極めなければいけない。自分を理解し、犠牲の範囲を理解し、塩気のある生き方を自ら学んで実践していかなければいけない。やっていかない方法を計算するのではなく、やっていく方を計算するのだ。どれだけならやれるのかをきちんと計算しよう。どの程度なら建てられるのか、どの程度なら戦えるのか。自分を見際めなければいけない。自分を見極めその段階、段階でやっていくのだ。その結果が成長してついてくる。弟子でいることが感情的で一時的であることがないようにと、イエス様は伝えたいのだ。一時的な感情で動くのではなく、自分を見つめて自分のできる段階からやっていこうというお話。