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聖書の学び94《ルカ11:9〜》
9, 私は、あなたがたに言います。求めなさい。( 求め続けなさい。)そうすれば与えられます。捜しなさい。( 捜し続けなさい。)そうすれば見つかります。たたきなさい。( たたき続けなさい。)そうすれば開かれます。
10, 誰であっても、求める者は受け、探す者は見つけ出し、叩く者には開かれます。
これはまさしく天の父のことだ。天の父は、私たちが近づいてくることを求めているし、喜んでいるということ。次にもっと分かりやすく、説明している。
11,あなた方の中で、子供が魚をくださいと言う時に、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
12,卵をくださいと言うのに、誰がサソリを与えるでしょう。
これも当時の格言。魚の代わりに蛇、とは海ヘビのようなもののこと。子供が海へびを持っていたら、父は、「それは駄目だ」と助言する。子どもには魚を求めていたら、魚をあげ、代わりに蛇を与えることはない。
卵とサソリは似ているか?実は白いサソリがいて、 それがうそれがうずくまると卵の様に見えるのだ。それを見て子供が、「お父さん。あそこに卵があるよ!」と近づいて行ったらどうするか?お父さんは制止する。「こっちに卵がちゃんとあるから大丈夫だ。」とあげるものだ。
これらも、小から大の例え。人間の父だって、子供には良いものは与えてくれる。天の父ならなおさらだと言うのだ。
11,してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子供には良いものを与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。」
全て、天の父にかけている。悪い父親だって、自分の子供には悪いことをしないものだ。まして良い天の父だったら、 良いものしかくれないだろう。 子供を愛して、ベストなものを与えてくれる天の父は、 何を与えてくれていると書いてあるか? そそれは聖霊なのだ。イエス様がこの話をしているのは、聖霊が降る前。だから、これを聞いた弟子たちはすごく驚いたはずだ。なぜなら、聖霊が与えられるのは預言者か王か祭司だと思っていたからだ。彼らは、王や祭司にはなれない。だから残りは預言者。だから、イエス様は何を言ってるんだ?私達は預言者になるというのか?求めれば聖霊を与えられて、お前も預言者?俺も預言者?と、預言者が溢れる時代が来ると言うのか?、と驚いた。みんな、聖霊が与えられている預言者がゴロゴロといることを、想像したことがない。そして、この時代の彼らの認識は、聖霊は内側には住ま、ず外側を覆ってくれるだけだ。だから弟子達はイエス 様の話を聞いて、天の父は、そんな人間を本当にゴロゴロ出すのかなあ?と思った。それほど、聖霊が与えられるということはすごい話なのだ。それが教会時代だ、ということは、今の彼らはまだわかってはいなかったのだ。そして後には、自分達だけでなく異邦人にまで聖霊が与えられるようになる。本当に、求めるならば、天の父は聖霊を与えてくれるようになるのだ。
しかし私達は、生命を与えられているがエリヤのようか?という義念もある。エリヤは聖霊を受けて、あのような大きな技をする使命があった。しかしあのエリヤでも、イエス様と一体化することはできなかった。私たちはエリヤよりもっとすごい。エリヤや他の預言者は見たこともなかったイエス様のことを、語り継ぐことができるのだ。またエリヤは天の父と言って、神様に近づくことはできなかったのだ。エリヤでも、そんなことをしたら殺されてしまう。私たちは天の父と言って、お父さんと言って、大胆に近づくことができる。聖霊が注がれているということは、見た目の派手さだけで決まるものではないのだ。エリヤは私たちに比べると、イエス様についての知識はほとんど持っていなかった。また私たちはメシアの国(千年王国)がどんなものか知っているし、更に、新エルサレムについての知識もある。また、永遠の秩序や患難時代のことも知っている。しかしエロエリアはそれほどの知識を持ち合わせていなかったし、知ることができなかった。確かに、今はエリヤのように、見た目に派手な業をするような時代ではない。今は、言葉の時代だ。エリヤや預言者の時代には、詳しくイエス様のことを言葉で語ることはできなかった。私たちは、詳しくイエス様のことを語ることができる。また、エリヤや預言者は裁きをメインに語ったけれども、私たちは許しを語る時代だ。時代が違うのだ。だから、イエス様がここで、「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊をくださらないことがありましょう。」と語ったことは、とても画期的なことだったのだ。
またイエス様は、今の教会時代の人たちに、この通りに祈れと言っているわけではないのだ。これを読んで私たちは、天の父を思い起こさなければならない。天の父がどれほど良いお方なのか、ということを。当時のユダヤ教にしてみると、私たちからすると考えにくいが、それぞれの人が天のの父に近づく、天の父のことを思う、天の父に祈るということは、レベルの低いことであった。それは異邦の宗教のやり方と思っていた。だから彼らはきちんと祈りをまとめ、暗証して祈ったりしてきた。けれども今は、そういう時代ではない。だから私たちは、聖霊が与えられているものとして祈る。「聖霊を下さい。」と祈るのは間違い。もう、「聖霊をください。」という時代ではない。聖霊は信じた時点で、受けるものだ。
エペソ5:18
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
「御霊に満たされなさい。」は、命令である。おすすめではなく、命令なのだ。「御霊に満たされる」 とはどういうことを言ってるかと言うと、 酒に酔うと人格が変わるように、「聖霊に満たされることを求めると、あなたが変わる」ということ。「満たされる」ということは、聖霊のご支配のこと。 聖霊は
日々の祈りの生活の中で信者が ご支配を求めないと、その仕事をやれない。御霊は私たちの思いと同調するからだ。私たちは聖霊に満たされると、御霊の実を結ぶようになる。御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを、人格的に、実として表していくようになる。
私たちは、日々の生活で聖霊に満たされていくように祈ることが大切だ。すると聖霊は、 私たちに様々なことを気付かせるようにしてくれて、御霊の実結ぶように創り変え始めてくださるのだ。私たちの今まで聖霊が及ばなかった部分に、聖霊のご支配が及んで、 その人は変わっていくのだ。これが新約時代の祈りだ。
求め続けなさい。探し続けなさい。叩き続けなさい。
なぜならこれらは、日々の日常の祈りだからだ。
だからイエス様は、何を教えたかと言うと、私たちは日常生活でいろんなことが起こる。 それで、うまくいかないもの。いろんな失敗や心配、悲しみがある。悩み、怒り、苦しみ、不安がある。そんな日常の中で、 日々の祈りの生活の中で、大前提は 、天の父は良い方だよ、ということ。あなたと親密な愛の関係を、喜んでいるんだよ、ということ。 その前提の中で、天の父に祈り求めていく。 そして最大のものは、聖霊に満たされていくことを祈り求めること。 するとその人は変わっていく、ということなのだ。 またその生活の上で私たちの視点が、日常生活から、より天の父に向かっていくのだ。
天の父は、私達を両手を広げて待っていて下さって、私達を聖霊で満たして下さり、私達の人格を創り変えようとして下さっているのだ。
私達は日々、天の父に、聖霊に満たされることを願い、御霊の実を結ぶことを願っていこう。これが天の父の願いだ。