ジェンダーについて その4(LGBT)
これまで女性問題、女性に対する人権侵害、というテーマについて、私なりに考えたことを論じてきました。最後に、LGBTについて考えてみます。
このLGBTというテーマは、女性について論じるよりもさらに難しいと感じます。
私は自分の身近にLGBTの知り合いがいません。あるいは、これまで関わった人の中に、LGBTだと自認する人がいたのかもしれませんが、私にはわかりませんでした。
LGBTのうち、私が若い頃から知っていた言葉は
L(レズビアン)とG(ゲイ)だけです。
B(バイセクシュアル)
T(トランスジェンダー)
については、最近まで言葉も知りませんでした。
G(ゲイ)については、随分と昔からそのようなタイプの人がある一定数いたことは、結構記録に残っています。私が覚えているのは、「ソクラテスの思い出」です。若い頃、岩波文庫で読みました。今は、光文社から文庫が出ています。
確か、この本の中に、男性同士の性に関する記述が書かれていたように記憶しています。古代ギリシャやローマの時代から、ゲイの文化、国王や皇帝が見目麗しい若者を側に置いて可愛がる、ということがごく当たり前に行われていたことは、いろんな本で目にしました。古代ギリシャやローマの時代、(性に関して)世の中はもっと自由奔放だったのでしょう。日本でも万葉の時代、性に関して今よりもっと自由だったのではないか。あまり詳しくありませんが、そんなことを読んだ覚えがあります。
性に対して厳格になったのは、時代の変化が影響しているのだと考えています。西洋においては、カトリック教会が神父の結婚を禁止したこと等からも、性的な行動、行為に対して社会が厳格な姿勢を取るように変わっていったのではないでしょうか。イスラム教が女性の服装に対して、とても厳しいルールを設けているのも、時代背景が影響しているように思えます。
どちらかというと、これまで日陰にいた、表に出ずらい状況だったLGBTの存在が、最近になって表に現れてきたのは、社会がその存在を認め始めた兆しであり、時代が変化しつつあることを感じます。
LGBTの人は、性に対して、どうして自分は他の人と異なるのか、と自分でも悩んでいるようです。本人すらも、何故自分が他人と異なるのかわからない、わからないけど違う、どうしたら良いのだろう。と戸惑っているのではないでしょうか。この気持ちは当事者本人しか理解できないでしょう。
男は女を理解していない、
と繰り返し記載しましたが、
同様に、以下のようなことが言えると思います。
多くの男と女はLGBTを理解していない、
多くの男と女はLGBTを経験していない、
自分が体験したことのないことを理解するのは困難である。
女性の社会進出や活躍について、なんとか理解できた人も、LGBTの存在については、理解できない、認められない、と感じた人、結構多いのではないでしょうか。同じ人間としてその人権は認めるものの、その勢力があまり社会に広がるのは如何なものか、と。
私自身、そのような心の葛藤を感じています。
自分の知らない存在、自分が理解できない存在が拡大すると、何やら自分の居場所が侵食されるのではないか、といった恐れや不安、場合によっては怒りを感じるのです。
こういった心の葛藤を払拭する、というか、乗り越える、というか、あるいは気持ちを整理するために私が自分自身を納得させた理屈は、
ダイバーシティ
です。
私は、「女性は男性では思いつかないような感性やアイデアを持っている。」と記載しました。
同様に、LGBTの人は、その他の男、女が思いつかないような感性やアイデアを持っているに違いない、と考えられます。
人と大きく異なる個性や感性がある、ということは、
多くの人が思いつかないようなその独自の個性、感性によって、誰も気づかなかったことに気づき、誰も解決できなかった解決法を思いつく、そういった可能性がある。
LGBTの人は、男と女という二つの性の間に位置する、中間的な存在だと思います。
この地球に存在する生物は、基本的には
male
female
の2つの性のどちらかに分類されます。二元論的な考え方です。
陰と陽
昼と夜
物事を2つに区切って考える。
しかし、昼と夜の間には中間的な時間が存在します。夜明け前、明け方、夕暮れ、夕方など。
LGBTとは、男と女の間のどこかに位置するファジーな存在。そんなイメージです。
仮に、「男」と「女」が対立したとき、その両者の間に立って、その対立をうまく納めてくれるのは、LGBTの人々なのかもしれません。
このように考えると、LGBTの人々は社会の様々な問題を解決してくれる、貴重な存在なのかもしれません。自分達と異なる勢力を排除するのではなく、協調し、協力し、win - win
の関係を築くことができたら、それは最高ではないでしょうか。たとえ相手を理解できなくても、好きになれなくても、共存共栄することは可能だと考えています。