最近はインターネットで調べたり、PCにデータを入力しておけば、自分で覚えていなくても必要なこと(情報)を必要な時に知ることができます。

それは便利なのですが、それぞれの情報を比較したり、統合したり、まとめて抽象化したりということをしようしたときには、表面的な浅い考察しかできないのではないかという気がしています。

 

先ほどNHKでAIの番組を放送していました。

AIは過去の膨大なデータから課題となる事案についての予測を高い確率でアウトプットするということでした。

番組のナレーションから推測すると、AIは理論ではなく独自に経験則を見出すことによって予測しているようです。

この独自の経験則が人にはわからないのでブラックボックスなのでしょう。


 

<将棋>

そういえば、私はいつ上達したのだろうか。

 

友達のお父さんが遊びに行ったみんなに棒銀を教えてくれたことがありましたが、将棋の技術としての内容で覚えていることはありません。

その後も棋力が上がったという感じもありませんでした。

 

その1年後ぐらいに、気まぐれで定跡書を買って読んでみました。四間飛車対居飛車急戦の本でした。

棋力はアマチュアの5,6級だったのではないかと思います。

その頃なぜか、定跡書の仕掛け前の図面を見て先を読む前に自分だったらこうしてみようと思うという手を考えていました。

そして、当たると一人喜んでいました。

相関の有無はハッキリしませんが、上達を自覚したと時期と重なります。

 

その当時、私は詰将棋には取り組んでいませんでした。終盤で間違えるのは、ポカミスだと思っていましたので。

終盤にも技術があって、詰将棋がその一つなのだとわかってきたのは将棋大会に出るようになってからです。

 

手数の短い詰将棋は、詰みの形や手筋を知っているかどうかが解くための大きな要素です。

だんだんと長い手数の詰将棋に取り組みだすと、数手先の局面をどれだけはっきりと頭の中に描けているかが大事になってきます。

当たり前のことなのに、これは、後から気づいたことですが・・・

 

いつ気づいたかというと、お風呂の中です。手数の長い詰将棋はなかなか1回見ただけでは解けなくて、1日10分かそこいらずつ、何度も問題図を見ています。

あるとき、お風呂の中でフト思いついて、問題を考え始めました。すると、駒の配置と利きも想像ができて解くことができました。

何度も見ていたので、無意識の間に問題を覚えていたのです。

 

この「何度も見ていた」が曲者で、ただ見ているだけでは先の局面を想像できるようにはならないようです。

毎日10分程度でも、解こうとして見ていたことが、先の局面も想像する力になったのだと思います。

 

 

コンピューターでも人でも、考える(計算する)ためのデータがその記憶(メモリー)の中にあることが重要なのかな、と感じます。

図面や図表を見ながら(外部からの情報入力)では考える(計算する)正にその時に使えるデータが限定的になるので深い考察ができないのではないかと思います。