空海の風景(司馬遼太郎) | ぴるくるの読書感想文

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5年程前に橋爪大三郎/大澤真幸の「ゆかいな仏教」を読んだ。おぼろげな記憶ながら、仏教の本質は仏陀が実際に覚ったということであり、仏教を信じるとはそのこと(仏陀が悟ったということ)自体を信じることである(それ以上でもそれ以下でもない)、との説明があり、拍子抜けしたように記憶している。さらに、仏陀は偶像崇拝を禁止しており、大乗仏教は亜流だ邪道だ、とまで書いていたようにも記憶しており、父方母方いずれも真言宗である私は、そのことにひどく失望した。と言いながらも、熱心な仏教徒ではない私はそれ以上気に留めることなく、5年の歳月が経過した。春先に祖母が103歳で他界し、真言宗とは邪道なのか、空海とは何者なのかが急に気になり始めて本書を購入した。

 

本書を読み終えて、自らが設定した質問のレベルが低すぎることを恥じつつも、真言宗は空海から見れば仏教の完成形、空海とは私から見れば哲学者、が現時点の私なりの答えである。

 

無学な私は最近になって哲学に興味を持ち始めたが、その理由は、哲学の論理的な美しさに魅せられたからであり、哲学はサイエンスだと感じたからである。ここでの私なりのサイエンスの定義は、論理の積み重ねによって世界(宇宙)の原理を追求する学問くらいの意味であり、哲学はフィクションだと思っていた私にとっては大きな発見であった。そして、本書を読んで、そうか、真言宗も論理なのか、宇宙の原理なのか、それなら哲学でありサイエンスなのか、と感じた。蛇足ながら、哲学とは、サイエンスのうち人間の内側の原理を追求する学問、との感触を私は持っている。

 

真言宗は密教であるが、密教は、空海以前は仏教の呪術部門程度に括られていた。これを空海は、密教とそれ以外(顕教)として並列に並べ、それだけでなく、密教を論理で敷き詰めて宇宙の原理に昇華し、密教こそが「仏教が発展して到達した最高の段階」とした。すなわち、顕教(既存仏教)の上に密教を位置付けた。ところで、本書では宇宙の原理の正体には触れてはいないが、それはサイエンスなのではないか。

 

司馬遼太郎は、「空海だけが、日本の歴史のなかで民族社会的な存在でなく、人類的な存在だったということができるのではないか。」と述べている。千数百年間も受け継がれる宗教とは、正に哲学そのものなのではないのか。そのような空想にふけるきっかけを本書は与えてくれた。