塾教師はそれぞれの科目を教えます。自分の担当科目を精一杯扱います。しかし、他の科目も生徒には必要であり、結局担当者のチーム全体で生徒を導くことになります。その中で、担任教師というのがいて、生徒に直接関わる機会が一番多いし、保護者と面談をもします。賛美チームでもボーカルなど、狭い意味での賛美リーダーがこれにあたるでしょう。そして各パート担当が他の教師です。塾教師は消えなければならないと言いましたが、格別に喋りがうまいとか芸術的に教えるとかいうことでなくてよいのです。生徒が通る道を用意できればよいのですから。但し、教師は、たどたどしく訳の分からない授業をすることはいけません。賛美の演奏も、ひっかかったり音を外したりするのは拙いでしょう。つまりは、特別巧い必要はないけれども、また目立つ必要もないけれども、スムーズに道を備える必要があるということです。安心して歌える場面を設定することが、演奏者には必要であることが分かります。それから、塾は教える教師は確かに生徒にとり大きな存在ですが、それだけがすべてではありません。プリントを印刷する裏方さん、掃除するスタッフ、受付係、皆が、その生徒の合格のための環境をつくり、貢献していることになります。教会の一人ひとりが、音響や照明に携わり、受付で笑顔を見せるというそのこともまた、道を整えることであるに違いありません。これでこそ、神の奉仕者、いや同労者なのだと言えることでしょう。
 
神を指し示し、人々が神と出会う道を整える。賛美リーダーの担うものがこのようなことではないか、と気づいてくると、私たちは否応なしに思い起こします。これは、バプテスマのヨハネの姿ではないか、と。一瞬、メシアではないかとさえ思われたヨハネですが、やがて来る方の足元にも及ばないと告白し、その方が来れば自分は衰えると言いました。そして自分の役割は、道を備えることだと分かっていました。見よ、神の小羊がこの方だ、と指し示すのがヨハネの仕事でした。ヨハネは、キリストに先立って現れ、キリストの道標となったのです。キリストに先立つということは、ビギナーにとって、キリストより先に目に見える存在として賛美リーダーが現れるということを意味します。しかしそれが目的なのではありません。ヨハネは福音の初めではあったとしても、福音の目的ではなく、核心ではありませんでした。やがてヨハネは歴史の舞台から消え、その向こうにあるキリストへと人々が結びつくことになります。
 
 
賛美リーダーのセミナーにおいても、実はこのバプテスマのヨハネの話に触れられたのだそうです。だとすると、私の想像も、あながちひとりよがりのものではなかったということになるでしょうか。ともかく、ここに綴ってきたことは、私の感想に過ぎませんから、事の真相については、発表者への確認を求めます。その上で、こうした捉え方をまたたたき台にして、私たち一人ひとりが、そう、音楽を直接担当しないにしても、教会の中のひとりとしてここにいる自分にとり、どんな小さなことでも、たとえ笑顔ひとつにしても、そこにいることが意味をもっているのだということに気づき、顔を上げて共に主につながる道を歩ませて戴きたいと願います。