妹が生まれたお姉ちゃん。これまでひとり愛されていたのが、ママはその赤ちゃんにつきっきり。そもそも最近はずっと遠ざけられていたような感覚をもち、何かご用事が済んだらまたママを独占するつもりでいたのに、敵は完全に姿を現したではないか……。
 
子どもは言葉でそうした気持ちを表現できないし、自分の気持ちを見つめることも難しいでしょう。経験を言語化するというのは、自分における出来事を自分から距離を置いて眺めるための重要な営みであるのかもしれません。
 
キリストと出会った体験をした場合、それを証詞という形で語る時が必要になります。きちんと文書に仕立て上げてから、キリストとの出会いを語ったのではありません。夢中で「お会いしました」と話してまわる人や、癒されたとふれまわる人の様子が、福音書には幾度も描かれています。十人の癒された人のうち、ひとりだけが感謝を伝えに戻ってきた、というような話も。病気は罪の故であったし、まともに共同体に加えられなかったのが通例であった時代、たんなる病気治しの事件ではなかったことを改めて思い返します。
 
責め立てられても、あれやこれやを弁解しようと準備する必要はない、必要な言葉はそのとき聖霊が備えてくださる。自分で何かをしようとか、仕上げようとかいうことばかり考えていては、それは思いつかないでしょう。神を信頼し、神が助けてくださることを、神が一切の責任をとってくださるということを期待しているならば、ひとり思案するには及ばないというのです。
 
(続く)