表向き、聖書を信仰している姿勢を告げ、神を称えている言葉がそこにあるとしても、なんだかそれをやっている自分自身が正義であるという錯覚と勘違いに陥っているだけで、いつの間にか自分の思いや感情のほうが、神を従わせていくような経過が、その背後にありはしないだろうか、と懸念するからです。それはひとさまの心を勘ぐるとか裁くとか、そういうことで片づけられることではなく、自分自信の中に巣くっているものによって、懸念しているとう事情です。
神はこうですよ、聖書はこう言っています、と恰も信仰熱心であるような言明。しかし、よく見ていると、何か対立する考えを一蹴してけなしたり、他者を明らかに自分が神であるかのように裁いたりしていくようになることが度々あります。どうもキリストの教えやその歩みとはかけ離れたことをしているのではないか、と心が痛んでくることがよくあるのです。もちろん、それは私がとやかく言うことでないのは百も承知なのですが、自分の考えた「信仰」だけが正しくて、他人のはだめだと厳しく決めていく姿勢は、私にもあるだろうし、おそらく多くの人にあるだろうと思えて仕方がありません。それは、たとえ「私たちはどんな信仰でも寛容に認めます」と宣言していても、あまり変わらないように感じます。そう口にする人が、ある状況に置かれたらどんなに信じられないようなことを他人に突きつけるかも、私は見聞きしてきました。人間は、そんなものなのだろうと思うのです。
キリストの名を口にする自分が、つねにキリストの側にいて、正しいのであるような気がしてくる。すると人間の性というものは、いつしか自分が神になっていく。これは巧妙に仕掛けられた罠でもあり、分かりやすく言うならば、悪魔の手段でありましょう。今日のキリスト教放送局(FEBC)のお便りコーナーに、この構造に気づいた方の誠実な声がありました。「ああ、よく信仰しているねー」と声をかけてくるのは、キリストではない、悪魔である、と。私もそうだと思います。
キリスト紀元の時を刻むことは、キリスト教文化とは関係のない世界との関連によって、百年余り前から、「CE」「BCE」に変更する動きが始まっていますが、定着はまだのようです。世界はキリストが時を支配しているように見えます。しかし、一人ひとりがキリストに支配されているかというと、大いに疑問です。まずはこの私がその反例となるのですから。ではいったいキリストの支配とは何でしょう。支配は聖書の中で「国」の語で表現されるとすれば、神の国とは何であるのか、神の国はどこにあるのか、そんなことを、私たちはアウグスティヌスならずとも、真摯に問いかけ、またその実現に自分が関与できるかどうかという視点で、時を見つめ、歩みたいと思うのです。キリストの支配から一番遠いのがこの自分であるという意識。パウロが「罪人のかしら」と自分を見なした気持ちは、私なりに共感しているつもりで、今日を生かされています。