新しい元号が一年後に使われ始めるのだそうです。個人的にこの元号というのを使わないので、今年が平成何年かということについて、いつも自信がなく、訊かれてもきちんと答えられない状態の私です。公文書でどうしても平成で書けと迫られると、いつも悩みます。どうして公文書でそう迫られるのか、そのあたりの閉鎖性云々はさしあたり言わないことにします。
 
元号はともかく、時の支配というものは、権力者のいわば究極の願望であったと言ってよいかと思います。現政権の支配は果たした。が、それは諸行無常の中にある。永遠にこの名による支配が続くことが理想である。だから後継者に己の血筋の者を就け、名が続くことを求めていく――自分が朽ち果てる存在であることは諦めなければならないにしても、自分の名は支配者の系列の中に燦然と輝いていられるように、と目論むのです。
 
時の支配、それは時を自分の名で刻むことです。聖書の中でも、何々王の何年の時、という記録があります。主なる神を仰ぐ記者にとってはもどかしい思いがあったかもしれませんが、歴史の記録性からすれば、この形をとらざるをえなかったことでしょう。
 
いま、国際的には西暦、すなわちキリスト紀元の年号が一般的に使用されています。日本の元号のように、国内ではそれを使わないという国は、イスラム関係の国々やユダヤ、またアジアの一部などいくつもあるのですが、さしあたり国際的対話の中では西暦を基準にしていると言えるでしょう。
 
いまや、キリストが世界の時を支配している、と大まかに言えるかと思います。キリストが世界の王であるのだから当然だ、などと言っている場合ではありません。これは西欧諸国の文明支配に基づく結果であるというような考え方のほかに、もっと根本的なところで捉えてみる必要はないでしょうか。
 
私は、この西暦世界の中で、キリストが世界を支配していると口にすることを恥ずかしく思うのです。それは、私の心をキリストが支配し尽くしていると言えないことを知っているからです。このことについては説明をいたしません。事実は、皆さまが証明してくださるだろうと思います。
 
もちろんそれは、私がこの世界にいる、ということを前提しています。しかし、私が世を見渡すときに、自分がこの世界にいる、ということを忘れているような情景を認めることが、実はあります。表向き、聖書から言葉を引き、神を称えている、信仰熱心な言葉が、私のタイムラインにどんどん飛び込んできます。何のことのないその言葉に、「アーメン」という
コメントや「いいね」が次々と並んでいきます。しかし、ああ麗しいクリスチャン同士のつながりだ……と、私は単純には思わなくなりました。
 
(続く)