それでも、私たちは見抜かなければなりません。「批判」はしなければなりません。自分で言い放つ言葉が、自分にも適用されるものであることを常に弁えつつ、互いにキリストのからだを建て上げるべく、適切に検討する必要がありましょう。なあなあで済ませていくこと、いつの間にか流されてそれでいいんだという空気に染まっていくこと、それよりは、時に痛い思いを抱きつつも、「批判」をすることが必要なのです。
 
神の言葉が語られているか。これまでずいぶんと、この点で私は甘く見過ぎていました。語る者が聖書にある悪をなしたが故に、神の言葉ではなかった、とするものではありません。それはたとえば、洗礼を授けた者が罪を犯した場合にその洗礼が無効となるのか、という問いかけとして従来から問題視されていました。結論は、無効となりはしないというのが一般的な考え方となり、私もそれでよいと思います。神の言葉を語る者もまた然りです。しかし、その人物の品行方正が、その語ることを神の言葉にするわけではありません。この点で、私はこれまで甘かったのです。
 
批判と非難の境界は、確かに曖昧かもしれません。しかし他方で私たちは、然りは然り・否は否、との励ましも受けています。これは福音であるのかないのか、神の言葉を語る器であるのかないのか、そもそもこの人は神と出会っているのかいないのか、こうした点は私の中で曖昧にせず、それでいて、どこからでも神の声を聞くだけのオープンさを心に構えながら、細い声を聞き逃さないように導かれていきたいと願っています。
 
いよいよ十字架への道を黙想するとよい時となりました。そもそもつねに黙想しているとはいえ、これからの一週間の中で、いま一度立ち止まり、十字架を見上げ、示される道を歩ませて戴きたいものです。いつでも、自分が放つ言葉すら、まず先に自分へ適用するという姿勢を忘れることなしに。