「こびとなんて、いないよね」
 
絵本についてのある本の中で、子どもにこのように言われたときにどう返しますか、という問いかけがありました。私は迷わず、「いるんだよ」と答えるはずです。わずかなためらいも見せません。子どもには、それが必要だと思うからですし、また「いる」と言う自分の心にも偽りをもっているつもりもありません。
 
その本の著者も、同意見だと分かったとき、うれしく思いました。男の子3人を絵本で育てた私としては、絵本について生涯考えてきたその人と考えが同じだというのは、自分のしてきたことが間違っていなかったという安心にもなったのです。
 
サンタクロースはいるの? この問いにも、私は同様に答えるでしょう。そのほか、子どもの心の中に芽生えた、目には見えないものの存在概念を、基本的にみな肯定したいのです。
 
そもそも「いる」「ある」とは、どういうことなのでしょうか。
 
「福音と世界」の3月号の中で、永井隆さんのことについての論考がありました。長崎原爆のときに身を挺して働き、多くの著書によって知られる医学者であり、カトリックの信徒です。それはえてして美談として語り継がれますが、その論考では、戦争協力をした責任の部分を追及していました。偉大なことをした人に対しては、しばしばこのような、汚点(よく「黒歴史」と言われるようなこと)が暴かれようとします。マザー・テレサについてさえ、どれだけ悪評やデマが陰で飛び交っていることでしょう。ではこのことが明らかになった故に、これまで永井さんに憧れ、慕っていた人の夢は壊されるのでしょうか。あの永井さんのようになりたい、と学んだり歩んだりしてきた人の一途さは、空しくなるのでしょうか。
 
「ある」とか「ない」とかいう言明を放つのは人間です。人間の判断がそのように定めています。歴史の中で、かつてはそんなものは「ない」と言われていたものが「ある」ようになることは多々あります。発明により開発されてできたものもあれば、ないと思われた自然物や生物が発見される場合もあります。
 
そして「ある」というとき、私はかつて幻想を見ました。存在者は原子からできているといいますが、その原子の内部構造からして、それはいわば「スカスカ」なものです。事物と外部との境界線はどこにあるのか、原子レベルから見れば曖昧なものです。いえ、そこまでいかなくとも、「あなた」はどこまでが「あなた」でしょうか。体の皮膚? それでは口から肛門までの消化器官の内部はどうでしょう。そこは体内に位置しますが、考え方によっては、外部です。「あなた」には属さない空間です。「あなた」は、「あなた」の内部に、「あなた」でないものを抱えて動いています。肺の中も、もちろんそうです。「あなた」として「ある」のは、どこまでなのでしょう。
 
(続く)