これまで幾度、その意味で違和感を覚える説教を耳にしたことでしょう。解釈が違うというのではないのです。聖書や生き方について意見が違う、というのではないのです。同じ場所に立っていない、同じ景色を見ている人ではない、という違和感です。「これは牧師の言葉だから、神の言葉として聞かなければならない」という従順への命令があるために、自分のほうが間違っている、と自分に言い聞かせ、教会生活を続けてはいたのですが、そのうちに、ほかの人もまた同じ違和感を覚えるということが発覚するに至り、やはりこれは「別世界なのだ」と気づいたときには、もはや食い違いを改善するような手段も執れず、「これは違う」と断言して、そこから離れるしかなくなっていくのです。
それは、目を覚ましていなければ気づかないのだ、ということが、痛い目に幾度も遭う中で分かってきました。もちろん、単純に私と私に同意した人々のほうが間違っている、という可能性は当然残っています。これを結論づけることができるのは、神のほかありません。いま多くのキリスト教会が異端だと非難している対象についても、神の側からどうなのかについては、こちらで裁きをつけることはできないわけです。しかしながら、私が問題としているのは、対立意見というのではなく、そもそも立っている場所が、見ている世界が違う、という感覚です。この感覚を抑えていたところが最後には、やはりその相手はとんでもない代物であった、ということを何度か経験してくると、あながち自分のこの感覚だけがおかしいのだ、とは疑えなくなりました。そのことはまた、多くの神学者の著作や、キリスト者の証詞を見聞きするときに、さらに強く感じます。最近は説教論の類を特に多く見ていますが、その多くに共感できるし、少しばかり意見を異とすると思っても、同じ土俵で考えてのことだということが、実によく分かるのです。
ひとつには、語る者が神と共にいるかどうか、神と出会った経験があるのかどうか、その辺りに決定的な理由があるような気がするのですが、その辺りは個人の眼差しから決するような真似は控えることにしましょう。意見の相違ではなく、共有する場があるかどうか、これは、見かけの愛想の良さや善い行いには拠らない基準に由来します。ずいぶんと痛い目に遭ってきましたので、そろそろ私も頑固に、「これは違う」という点は適切に踏まえながら、人を見るのでなく、神に会うため、それは語弊があるとすれば、神の言葉を受けるため、主日にそれを共有できる同胞たちの交わりに与ることを続けるつもりです。祈りと賛美を献げながら。
幸い、ここのところは健全な言葉を受けて感謝することしきりです。