時折、学校の教師を、一般企業に研修に出すという企画があるらしく、ニュースになっていることがあります。ニュースになるくらいですから、ふだん殆ど行われていないわけでしょう。学習塾を見学させてもらうという公立学校も実際ごく一部ですがありました。すると教師たちは、それまで当たり前だと思っていた学校での考え方が崩されるのを覚えると言いますし、それが狙いであるとも言われます。いくら生徒を支配してもそこから生徒が逃れられない構造になっている学校と、生徒のためにならないことをすれば生徒がすぐにやめてしまい商売が成り立たなくなってしまう学習塾とでは、根底的にスタンスが違うという、当たり前のことにようやく気づくというのです。つまり、塾は教育にも関わりますが、営業の姿勢もあるということであり、「先生」たちは後者の原理がわからないのです。
 
営業職は、口約束でも決して軽視しません。信頼に関わるからです。もちろん契約書は法的にも最重要でしょうが、口約束であっても、顧客はそれを言ったのにしてくれない、ということであっては、信頼を失います。営業においては、口約束も、契約と同じ重みをもって対処します。信頼(クレジット)を失うということは、死活問題となるからです。それどころか、顧客が直接言わなくても、このようにしてほしいと考えているだろう、という推測の下に先回りさえします。果たして学校の先生はどうでしょうか。最近はだいぶ意識も変わってきましたが、子ども相手には「ああ、忘れとった、すまん、すまん」で済むという場面が、やはり随所に見られます。保護者に対しても、「すみません、間違っていました」で済むような空気も、消えることがありません(しかし優れた高校になると、さすがにこうした点で問題を感じたことはありません。小中学校と幼稚園で拙いケースがあったということです)。教職者が過労だという社会問題があるのは存じておりますから、これは個人の責任だとばかり言うつもりはありませんが、ならばなおさら、これは組織的な問題であると言うことも可能でしょう。信頼を失えば顧客が離れるという営業と、信頼が薄くとも顧客側としてはそこに留まるしかないような教室とでは、信頼というものに対する運営側の感覚に温度差があることは否定できないでしょう。
 
また、「先生」として教室に立つと、たとえば目の前に生徒が30人いるわけです。数字の上では、ある一人の生徒は、30分の1に過ぎません。それぞれと一対一で向き合っていると、先生は30人分のエネルギーを必要とする理屈になります。すると、生徒一人の声も30分の1のものとしてしか扱えなくなります。しかし生徒からすれば、先生は一人です。この比重の差が、同じ言葉を交わしたときの意味の差となる可能性があります。営業する者も、多数の顧客を扱うとなると、客一人あたりが何十分の一という理解になることも考えられますが、通りがかりの客を拾うというのではなく、顧客としてあたる場合、一人を失うことの許されない状況が起こります。一定の権限をもつ責任ある顧客にとっては、多数の営業者の中からひとつと契約するという形になるため、むしろ営業する者は、選ばれる立場にあるという場合がありましょう。この顧客の信頼を失ったら自分の身はない、という覚悟を帯びるビジネスの現場に出くわすことは、営業の世界ならば、多々あることでしょう。果たして「先生」という立場から、そのような切実さがどのくらいあるのか。むしろ政治家の場合ならば、どこを切ってどこを得るかという計算の中で事を進めていく手法を選ぶことは間違いないし、それが悪いとは言えません。最大多数のことを考慮するのでないと、一人ひとりすべてを重んじることは不可能なのですから。教会も、組織であるとするなら、数で動いていかなければならないことはありましょう。ただそこに、基準としての聖書や伝統という原理があるところから、民意で動いていく社会の動きとは根底的に違うとも言えます。単純な比較はできません。それでも、それが必要なことがあるにせよ、意識の中で、one of them という扱いを先生がしがちではないか、という点は、何かのときに罠となることがありうるとは言えないでしょうか。
 
(続く)