SNSというのはどうあるべきか。そんな問いへの答えというものが決まっているわけではないでしょう。開いた人の思惑はあったかもしれませんが、参加した者たちがしたいと思うようになったこと、使い道がそこに見出され、また時代の動きの中で流れていくことは当然です。SNSの悪い影響が社会問題化されることもあるし、良いことをもたらすこともあるわけです。
 
牧師や神学生などで、コミュニケーションのために用いられている場合が多々あります。私も一信徒でありながら、そのネットワークの中に紛れ込ませて戴いて、勝手なことばかり申し上げております。
 
そんな中で、ある若い視点からの声をなにげなく知りました。実は私もそれは感じていましたので、私の口を通して表してみようと思いました。ですから文責はもちろん私にあります。失礼を承知で提言します。お気に障る点があるかもしれませんが、次の世代のために、「おとな」になって耳に入れご一考くだされば幸いです。
 
もちろん、牧師が政治的な発言をしてはいけない、などという決まりはありません。政治に対する意見は持ちましょうし、それを言明することも社会的に必要なことがあるでしょう。しかし、同じ意見を言い放つにしても、反対する立場の人を揶揄するかのような表現で一方的悪し様に言うのはどうでしょう。政策内容の議論でもなく、また弱い立場の人の声を代弁して訴えるという目的の主張でもなく、ただ非難めいた呟きだけをぶつけてどこか嘲笑するかのような口調で言い放つという記事を、垂れ流しにしてはいないでしょうか。それでいて、ではどういう政策にすれば希望がもてるのか、という意見をそこから見せてくれるわけではない場合すらあるわけです。
 
政治を(適切に意味において)批判することは、あってもよいと思います。見張りとしての役割を担うのも、預言者的な仕事を受け継ぐ者の務めであるとも言えるでしょう。しかし、その政策や政治家のどこがどのように批判されるべきなのかの議論を展開するのでなく、恰も人格を誹謗するかのような口調だけがそこにあるのを、若者たちは見ることがあるのは事実です。そしてそれだけを見ると、これは公平ではないことだ、と理解します。また、揶揄する側のほうを、奇妙なことをしているものだと見てしまいます。殊に、それが名の知れた神学者や牧師、また教会の壮年であるなどするとと、その中傷めいた発言に幻滅さえしかねません。もちろん、多くの方はそうではないのですが、中にはそのように受け止められるものがあるということは否定できないように思われます。
 
(続く)