善良であるかのように偽る。これを偽善という。旧約聖書では、詩編26:4でかろうじて見られます(口語訳・新改訳)が、これは「隠す」ニュアンスが強いようです。新約聖書では、特にマタイによる福音書を中心として(マルコに1度、ルカに3度のほか)、ファリサイ派や律法学者たちをイエスが「偽善者」と呼びました。英文字表記ですがギリシア語で「hupokrites」となり、英語の「hypocrite」の元の語であることは一目瞭然です。
元来「役者」を指す言葉として使われていましたが、とくに主役を指しました。ソクラテスの時代にも演劇が人気でしたが、当時の劇は、仮面をかぶって演じていたので、仮面の下に別の顔をもつ、という様子から偽善者という考えを重ねたのでしょう。また、そのようにして顔を「隠す」ということを表す語に由来しているともいいます。まさに、今日のメッセージの中の小説の例そのものですね。心に残る、励まされるお話でありました。
なお、この仮面を表す後のラテン語が「persona」で「ペルソナ」と読みます。仮面をつけたその登場人物を表すように変化し、人や人格を表す語として使われるようになりました。お分かりのとおり「person」という英語になりました。これがキリスト教神学では、共通な漢字をもつ「位格」という意味で用いられています。いわゆる三位一体の父・子・聖霊の三つの位格のことです。
さて、偽善者と日本語で訳しましたが、日本語だと、どのような語感があるでしょうか。善いことをしているが実は腹の中は違う、というふうでしょうか。善いことをしているが動機が不純だ、という時にも使うでしょうか。見た目では社会的に善いことをしている人間だと思われるかもしれないが、本当は自分の得になることを計算しているんだよ、いう感じでしょうか。人間、そんなに純粋な善なんかあるわけないじゃないか、とうそぶくところから、素朴に善いことをしている人や団体をこき下ろそうとする者はどこにでもいるものです。先週の朝ドラ「わろてんか」をご覧になった人は、栞さんが関東大震災の被災者に救援物資を送ったことを「売名行為」とマスコミが書き立てるシーンに憤ったことかと思いますが、あの世間の送った矢が「偽善者」というレッテルだったわけです。どんな善意の背後にも、人は何か自分の企みがある、と、「他人」へ向けては平気で突きつけるのが並の人間です。それほどに人には善がないことを知っているのならば、原罪の考え方を認めるわけですから、キリストの救いを受けるとよいのに、とよく思います。その矢を自身に向けて放つといい。そう、自分もそうなのです。いえ、自分こそまさにそうなのです。自分の中には善は何ひとつない。キリストとの出会いは、そこからスタートします。
(続く)