松の内は、関東方面では今日まででしょうか。関西はもう少し長いとも聞いたことがあります。が、いずれにしてもこれらは「年神」由来の門松の問題です。以前は個人も誕生日ではなく正月に年をとるとしていたことや、数えの年齢の習慣などから、年神という考え方は人の「時」を支配していました。そもそも年末の大掃除というのも、年神の思想に由来していますから、教会で大掃除を年末にするというのは、クリスマス休暇の扱いからすると違和感があることかもしれません。
31日が主日礼拝であったことから、1日の元旦礼拝を開かない教会も少なくなかったようです。私は個人的に、教会は開けておくべきではないかという考え方をもっています。誰がいつ教会に救いを求めに来るか知れないからです。ですから礼拝の時刻も都合で変更すべきではなく、定時に迎え入れる備えをしておいて戴きたいと考えます。そのときに、集いづらい信徒のこと、奉仕者がいるかどうか、そうしたことは二の次ではないか、と。いる人がすればよいのであって、極端に言えば牧師一人が誰もいない会堂に向けて説教を語ってもよいとさえ思います。人の都合で催すような「礼拝」を掲げてほしくはないからです。今日は人が少ないから礼拝はしませんとか、まして明日は人が来にくいでしょうから礼拝は休みにしますとか、それは組織経営の視点であって、「礼拝」や「信仰」の事柄とは別の世界の話だと思うのです。
尤も、元旦礼拝のあり方は微妙と言えば微妙かもしれませんからそれはとやかく言うつもりはないのですが、中にはごく一部ですが、31日をお休みにした教会もあると聞いています。こうした傾向は、クリスマスをもっと盛大に祝うアメリカではクリスマス前後に連続する主日礼拝について、休みとする教会があると聞いたことがあり、それに匹敵するものかと思われますが、これはどうなんだか。中には、聖書に日曜日に礼拝をしなければならないとは書いていない、といかにも聖書通なことを言い放つ強者もいるのですが、都合のよいところだけ聖書を楯に自分の考え方を正義と主張し、自分に都合の悪い聖書の言葉は無視したり変更したりするという人間の性向はいまに始まったことではありません。ただ、日曜日にしても、昼頃終わるという礼拝時刻の設定は、人の労働の都合の中で決められた習慣ではありましょうから、早朝であったり、午後であったり、また夕べであったり、いろいろな形で集まる機会が定められていたら、それはどれも咎められるようなことはないことでしょう。
(続く)