そもそも主イエス自身、認める者が少なく、まして従うなどというのは外れ者だと思われたに違いありません。イエスは見る影もない地上での生涯を送りました。その生涯が、描かれた福音書の姿そのままであったと判断するのは難しいかもしれませんが、後になって神の子として、メシアとして評価されるに至るとき、果たして私たちは、どのイエスと出会うのでしょうか。福音書の記述の向こう側にある生々しい実態を、ゴシップ紛いの好奇心で盗撮しようと私は思いません。ある歌手の歌に感動し、勇気づけられる人がいるとき、その歌手の私生活の乱れを嗅ぎだし悪い評判を流す者がいたからといって、その歌を胸に私が、また人々が、明るく歩んで生きていけるとしたら、何の問題がそこにあるというのでしょうか。歌手の実像も知らないで虚像に騙されているなどと言われる、愚かなことなのでしょうか。
 
自らの子どもを5人も棄てたルソーの教育論により、人類は近代的な教育の必要を覚え、子どもたちもまた助けられたことでしょう。浪費癖のため生活は破綻し、妻たちを苦しめ早死にさせたレンブラントの絵が私たちの信仰心を強めたことも確かでしょう。パウロが当時どのように扱われていたにしても、パウロの言葉は人を生かす力を持ち得ました。後世の評価からする業績から、その人物を理想化することは間違っているかもしれませんが、その逆に、その人となりが尊敬できないからと言って、生み出した作品まで否定される必要はないと思うのです。
 
もちろんイエスは、こうした「人間」とはまた異なります。徹底的に人となったにしても、人と「なった」イエスが、ただの「人間」と等しく置かれてしまうわけにはいかないことでしょう。また、そのこと自体を信用できないとする気持ちの人も実際いると思われます。それはそれでよいのです。聖書が聖書としてそこにあるとき、その字面のままには信用が置けないとする理解も、確かにあるわけです。聖書はその意味で、つねにすでに神の言葉で「ある」ままのものではないと言う見方ができます。認識主観論的になってしまう虞はありますが、私が聖書を知るまでは、私にとり聖書は神の言葉で「ある」のではなかったからです。しかし、ある出会い方をした時、それは私にとり神の言葉と「なる」体験をしました。礼拝の場にも、様々な立場の人がそこにいる可能性があります。説教を通じて、初めてそのことばが神の言葉と「なる」体験をする人も現れて然るべきでしょうし、すでに信じていた人も、改めて、あるいは別の形で、神の言葉と「なる」聖書のことばと出会う可能性はいくらでもあるし、そうあってほしいと願います。
 
(続く)