先日ある学びで、日本の教会では、礼拝人数がある人数を越えることを、本能的に(という表現が適切かどうか分かりませんが)忌避する傾向があるという指摘がありました。「家庭的な」という形容が、教会のアピールに出てくることがありますが、家庭と呼びうる範囲を越えてくる教会は、居心地が悪くなったり、意見が合わず分裂したりしがちだというのです。かくして、家庭的な教会が乱立することにより、必要な牧師数が膨れあがるということになります。
教会の礼拝人数がある程度多くなったとき、「家庭的」でない方法により組織を安定させる知恵が必要です。スモールグループという形態もひとつの方法でしょう。また、牧師が必要以上にそうしたグループに干渉せず、自主的な動きのできる自由を認めるという方法で、「教会は一つであらねば」という強迫観念から解放され、緩い結びつきの中で一つの教会・共同体であり続けることも可能ではないかと思われます。「ひとつになるのだ」という意識は、却って、ひとつになれない考え方の人々を圧殺したり、追い出したりすることにつながりかねないのです。
但し、アメリカでそうした方法があるからと言って、それをそのまま日本で適用することはどうでしょうか。思想風土や文化が違うという理由のほかに、宗教的背景があまりにも違う点を押さえておく必要があるでしょう。つまり、私の見立てでは、アメリカでリバイバルが起こるとか、伝道をするとかいう感覚は、日本では、仏教が復興するとか仏教を伝道するとかいう感覚に匹敵するわけです。生活の中にすでに馴染んでいる仏教思想を、信仰という形で生かしましょうというのですから、そもそも生活の中に基盤のない日本のキリスト教世界では、アメリカの方法を使うことは根底的に誤っている場合があるはずなのです。
私たちは当たり前だと思っていても、傍から見れば奇異なこともたくさんあります。『メイド・イン・ジャパンのキリスト教』という、アメリカ・カナダから日本へ来て研究を続けているマーク・R・マリンズ教授による本は衝撃的でした。日本の教会の土着性が明らかにされていたのです。祖先崇拝の文化や習慣が教会でも何の違和感もなく行われていることの意味などが調べられていました。もちろん、それを批判している本ではありません。ただありのままに、日本の教会というものが、どういう背景や性格を有しているのか、を示していたのです。もちろん、それは欧米であろうが同様です。ケルトなりゲルマンなり、混交文化だと言われても仕方がない面もあります。聖母というのもそういうところからきているのかもしれません。いまや南米でもアジアでもアフリカでも、その地域なりのキリスト教が拡がっている、と捉えることも可能でしょう。
聖書は各国語に翻訳されて拡がりました。そもそも新約聖書自体、イエスや弟子たちが話していなかったであろうギリシア語という形で書かれたことに端を発していますし、七十人訳聖書のように、ユダヤ教自身にもそういう面がありました。翻訳することで、他文化の理解の中で福音が働きます。それは、元来の文化とはやはり異なってくる場面があることは避けられません。しかしまた、だからこそ世界宗教へと拡大していくことができたのだとも言えるでしょう。日本文化は、外からのものを包み込み、変容させていく得体の知れないものがあるなどとも言われ、芥川龍之介の切支丹ものの作品でもそれが告げられていましたが、しかし聖書というカノンがすべてのキリスト者にはあります。翻訳や研究の差異を考えても、また写本による原典ということで問題が多々あっても、一定のカノンはカノンです。私たち自身が生活してきただけのほんの僅かな時間の中での常識をすべてとせず、時に根本的なことに固執し(ラディカルに)、他方現代社会の考え方に合わせた速やかな反応をして(これまたラディカルのもう一つの意味)、牧師というものの存在と、教会と牧師の関係ということについて、問い直す時期が来ているのではないかと思われてなりません。もちろん、その背景には、信徒一人ひとりが、神とどう関係しているのか、というところから始めなければならない点については、言うまでもありません。
無責任な立場から、偉そうなことばかり申し上げました。福音の前進と拡がりのために、私なりの祈りとして掲げたつもりであります。