何を言っているか分からない文章というのは、そもそも語の定義がなされていない場合が多く、一定の記号である語を持ち出しても、書き手と読み手とが別々の意味でそれを読み解くとき、互いの論理が食い違い始めるものです。聖書でも「愛」だの「罪」だの、いくら教会内部から叫んだとしても、別のものをイメージさせるばかりで、何も伝わらない、というのがありがちな事態です。
 
「言葉」もまた、人それぞれに違うことを考える語の代表で、その定義をそれぞれの思想家が重ねたり壊したりして、常に何かを言い続けてきた、というのが哲学の歴史であるのかもしれません。
 
礼拝での説教は、聖書を説き明かします。それは、信じている語り手自身の意味の言葉を、聴衆に届けようとする試みです。語は同じように響いていても、その同じ枠の中に、供給側の装丁した色を塗ってもらえるかどうか、それは語り手には未知の問題であります。
 
それなのに、自分の信ずるところを熱く語れば語るほど、聴衆からすれば別の世界であるその語りの内側に、入ることができず、入ろうという気をも起こさなくなるという出来事だけが遺ることになります。
 
聴衆と重なる語の意義を持ち出すこと。説教はそこから始まります。しかしまた、説教は神のことばの取り次ぎでもあります。上から与えられるものですから、語る者が主張したいことが先にあって、それに権威づけるための飾りとして神のことばを「利用」することは厳禁です。それは説教ではありません。ですから、私の信条を伝えたいと躍起になればなるほど、神のことばを自分が支配するようにもなるし、聴衆はますます引いていくということになります。
 
神の語るのを聴く。語り手は、それを待ちます。しかし、人間の側からノックすることは悪いことではありません。むしろ求めよ、ノックし続けよ、とのイエスのことばがあるほどですから、しもべは聴いております、お語りください、と神に向き合い求める姿勢は重要です。むしろ必須です。
 
(続く)