教会組織もこの世の中での位置を持ちます。事務なしで、法的手続きなしで存在することはできません。しかしながら、役員会に出ておられる方、あるいは常会や定例会といった信徒参加の話し合いの場に出られる方、如何でしょうか。そこに「魂の配慮」があるでしょうか。いや、事務の場だからそんなものはいらないのだ、という意見もあるでしょう。何事も「信仰」などと言って片づけるわけにはゆかないのだ、との見解も尤もです。魂の配慮は牧師ひとりの職務であって、役員や信徒には責任がないし話題に上らせる必要はない、との考えもあるでしょうか。しかしながら、できることなら、この世の組織ではないという意味を担う、呼び出された者たちのつながりとしてのエクレシアが、何よりも大切な魂を神の国の住人に相応しい者への育んでいくような営みの場であることをも、大いに話題にしていくことが望ましくないでしょうか。いつの間にか、一般企業やイベント企画の会議だけであるような役員会が当たり前だと思い込んでいる危険はないでしょうか。
教会に、朝から夕までいる。時に他の曜日にも集まって話し合いをする。その場で、信仰の話が出ていますか。証しを聞く機会がありますか。聖書のことについて語り合い、励まし合ったり、祈り合ったりする時間があるでしょうか。何より、祈りがない集まりが、教会に相応しいはずがありません。
信仰の話が出ず、魂の配慮のない会議が続くとき、実は信仰のない人間が、少しばかりの事務の知識や声の大きさのために組織のリーダーとなっていき、教会を破壊していくということが、現実に起こります。そこにいくらかでも信仰の語り合いがあるならば、魂の配慮がその場に流れているとき、そうした者が幅を利かせる危険性を回避することができたのに、と惜しまれるものです。
組織の運営と能率や利得を第一義にしていくとき、弱い人、傷ついた人、助けを求めている人が見えなくなります。そのとき、キリストはその場を離れてしまいます。その小さな人がキリストでもあるのに、それに構わず切り捨てていくことになるからです。日曜日のその時間、あらん限りの勇気を振り絞って教会を訪ねる決心をした人が、教会堂に足を踏み入れることができ、心救われる応対に出会う、そのための準備が、いつでもできているでしょうか。少なくとも礼拝をしているという時刻に、開いていたり閉まっていたり、そんな教会があったりしたら、魂を排除していると言われても、仕方がないものではないでしょうか。私は、初めて教会に行ったとき、人生を懸ける思いで訪ねました。そして、ここは喜びのある処だ、と感じることができました。そこにいる人々が、何を大切にしているかということは、外から突如そこに入った人には、ちゃんと感じられるものなのです。人が自分の臭いは感じませんが、他人からはたちまちそれが感じられるのと同じように。