牧会。英語の表現を日本語に置き換えると、こういう具合になるのでしょう。羊を飼うというニュアンスをもつからです。これがドイツ語だと、心を気遣うこと、一般的には「魂の配慮」と称されるものを意味します。つまり、「牧会」とは「魂の配慮」である、と。
 
羊を飼うとはいえ、羊にエサを与え運動をさせるというのが牧師の仕事ではありますまい。やがて肥った羊を食べようとか売ろうとか、そういう目的があるわけでもないでしょう。ペトロが復活のイエスに告げられた、羊を飼えという命令を受け継ぐとはいえ、牧師が迷える羊を囲いの中に集めたり、狼から守ったりするだけのイメージでは、牧師の職務の理解としては不十分過ぎましょう。
 
執事や役員は、その手の専門職ではないにしろ、それに準ずる役割を担うとも言えるでしょうか。もちろん、役員と言えばひたすら事務に徹する、という理解も当然あると思います。御言葉に使徒たちが徹するために、日常の生活面の世話をする担当を選び出したという、使徒言行録の記事を根拠にすると、役員は、いわば「汚れ役」を買って出る係ということになります。御言葉を説き明かす牧師が、金策に走ったり法的手続きに奔走したりしてばかりという図式を排除するために、この世的な事務を引き受ける役割を担うというのです。私もそのように理解していたことがありました。
 
しかし、これはその教会の規模や考え方にもよると思われます。新約聖書の後期の書簡になると特に、教会組織が整う中で、監督だの長老だの、どう訳してよいか分からないような地位が出てきて、教会の中で世話をする者のあるべき姿が描かれることが多くなります。ある意味で模範的な生活をする者ともされますが、魂の配慮へ関わる世話とも窺えるような気もします。
 
さて、皆さまの教会はどうでしょうか。案外、牧師がひたすら事務にばかり携わってはいないでしょうか。へたをするとそれはワンマンになる危険もありますが、他方、牧師が忙殺されていくことにもなりかねません。聖書の説き明かしや霊的な配慮とは関係のないところで、板挟みになったり失政を責められたりして、苦悩に陥るなどという場合もありうるでしょう。

(続く)