手話をいくらかでも使おうとするつもりになれば、神の前にともに手話で祈り、賛美をすることができるのです。手話で賛美をするとき、その意味を正確に捉えようと瞬間瞬間に努めなければ、とても賛美をすることができません。聴者の私たちは、讃美歌の歌詞の意味も分からず、ただ音と声だけで時を過ごすということが、できます。しかし手話賛美は、意味をかみしめて、またダビデのように体全体で主を喜ぶことによって、初めて賛美ができるわけで、これを体験した人は、賛美に対する考え方が一変することが多いと思います。
 
職業的な手話通訳者は、いないかもしれません。しかし、神のことばをかみしめて伝えようと熱い心をもっている、手話の同労者がいる教会は、いくつかあります。ただ、そういう人がいるということを、教会は世に知らせなければなりません。手話がうまくないから、自信がないから、などとは思わずに、手話でお手伝いができますという情報を、その教会は流すべきです。ろう者は、聞こえない分、視覚情報は聴者より決定的に優れた能力で探し、手に入れようとしています。ネット世界にそういう人がいることを明かすならば、何かしらろう者の目に止まります。そして、強力に拡がっていくネットワークがあることを私は知っています。
 
ろう者はしばしば行動的です。海外旅行へも積極的に出て行きます。聴者が感じるほどには、日本社会にいても、海外にいても、コミュニケーション環境の差は感じないのです。ろう者は変な遠慮や気遣いをしないことがあります。伝えられる時にはっきり伝えておかないと、正確に伝わらないかもしれないからです。腹のさぐり合いのようなことを求めません。しかしそれは本来のコミュニケーションの姿であるはずです。
 
残念ながら日本手話(これは日本語を置き換えた日本語手話でなくろう者の中で生まれたもの)は、音声言語の標準語ほどには、標準化されていません。また、手話そのものを文書記録に遺すことも難しいものがあります。手話は言語であるといっても、音声言語と同列に置くものではないかもしれません。しかし、そこには日本手話ゆえの思考や文化があります。教会がすべてのひとに開かれたものを、と美しい言葉を掲げるのであれば、この方々を排除するわけにはゆきません。そのためにも、手話の心得のある方がいる教会は、ぜひそのことを広く告知して戴きたいと思います。切に、願います。