ある意味でお恥ずかしいこと限りなく、私は、通訳者などとは口が裂けても言えないほどに拙いもので、3歳児程度の能力しかないのかあるのか知れない程度の者でしかありません。しかし、教会の手話通訳は、「正しい」手話を使って説教を「まるまる」伝えることとは違う、と理解しています。もちろん、そのために、努力を怠り、ろう者の好意に甘えるばかりでよい、などと言うつもりはありません。しかし、たとえば説教を全部間違いのない手話に置き換えればよい、というものではないだろう、と思うのです。
 
たとえば説教者は、神からみことばが与えられ、それを語ろうと努めますが、神の思いを全部正しく表現できるかどうかは分かりません。いえ、それは不可能とすべきでしょう。ならば、説教をろう者に伝える手話通訳者も、説教の言葉をまるまる正しく置き換えるということもできない、とすべきなのです。それよりも、説教者を通じて神が現そうとされた神の心を、ろう者の心に届けることが、教会の礼拝における手話通訳者の役割なのではないか、それが第一なのではないか、と考えます。
 
手話の形は正しくないかもしれない。しょせん日本語手話という、ろう者から見れば単語をつなぎ合わせた見苦しい言語表現かもしれない。英単語を、日本語のままの順番にめちゃくちゃに並べて英語を喋っているようなものなのですから。しかし私は、いくらかコミュニケーションができることと、不足していることは重々承知のうえでも精一杯、ろう者の歴史や背景、置かれた立場や環境などについて知識を求め、また想像することとの中で、聴者のひとりとしてこれまでできていなかったこと、またしてしまっていたことを抱きつつ、理解したい、少しでも近くにいさせてもらいたい、そんな思いで、できることをさせて戴きたい、と願っている者なのです。
 
手話は言語である、という条例が各地でどんどん成立しています。福岡県はまだまだ遅れていますが、那珂川町は、役場が積極的に普及に努めてくれています。
 
教会では、必ずしも「正しい」手話が必要なのではありません。ともに神のことばを受け、神を称えるための手話であれば、さしあたりは十分です。愛はすべての罪を覆い、すべての敵対者をも結ぶ帯です。隔ての壁を壊す、あのベルリンの壁の一部が、南アフリカ共和国に届けられているということを昨日知りました。聴者が虐げてきたろう者たちとの間の壁も、乗り越えることができる希望が、まだあると思います。それは、戦後日本の戦争責任にも似た構造があると私は捉えているのですが、そのことはいまここでお話しするつもりはありません。
 
(続く)