以前沖縄戦に関して告げたことがありましたが、6月23日や8月15日を政府主導で記念するとき、それはいつしか軍人や天皇を時の基準に据えるというからくりを有している点に、私たちは目を見張っていなければなりません。その日を使うのには、意図があるのです。戦争について批判を加える場合、いつしか政府の掌の上で踊らされているだけ、という事態すらありうるのだということを顧みる必要があると思うのです。
同様に、憲法第9条についての意見を述べる場合にも、いくらそれを大切だと主張しようとも、現にその文言と違うものが活動していて、条文の言葉が建前だけで掲げられている以上、適当にガス抜きをさせられているだけという可能性をも疑う必要があるだろうと思います。そうでないと、第9条という偶像を拝して満足しているだけのクリスチャンたちであることになってしまわないとも限りません。戦争責任などを問題にしつつも、15日という前提の上に乗っかって踊らされているのと同様に。
言葉は、ある者はAという意味で理解し、他の者はBという意味で理解しています。双方が、同じ言葉を用いて合意しても、AとBは互いに別の理解をしていて、それぞれが満足しています。しかし結局、権力をもつ側がその思惑の意義でそれを実践してしまうことになります。互いに話し合うという美名のもとに、実は力のある側の思惑が現実となって働くことになります。
もはや言葉とは違うものが実態を支配し、動かしています。問題は条文を守るとか変えるとかいうことにあるのではなく、言葉と現実の関係の中にあるトリックを見抜こうとする知恵こそ重要であるように思われてならないのです。為政者は、言語感覚がおかしいのではなくて、周到に、多義的な言葉をある一面の意義によって建前として人々に認めさせつつ、隠し持った他の意義によって現実を動かす正当性を築こうと目論んでいるに違いないのです。