ヨハネ16:25-33
 
イエスにつながること。世に憎まれること。しかし、聖霊が助けること。イエスの姿はやがて目に見えなくなりますが、再会して喜びが与えられること。弟子たちとの訣別の時を迎えて、いわゆる告別の説教は、このように経過して、結末を迎えようとしています。けれどもこれらは、まだ、たとえによって話してきたことなのだ、とイエスは言いました。まもなく、たとえではない形で神を体験するようになるのだから、と。
 
福音書中には、たとえを用いて人々に語りましたが、弟子たちにはたとえを用いはせずになにもかも語った、などというシーンがありました。ヨハネ伝でのたとえとそれとは、少し趣を異とするような気がします。ヨハネ伝のたとえは、もっと隠された仕方のことのように感じられます。やがて聖霊の訪れにより明らかにされるまで、それは謎のまま解けないでいるというのです。
 
マルコが、ガリラヤでイエスと再会することを聞き手に求めているとすれば、ヨハネは、新たな体験で光の中に輝く愛を生きるように促しているのでしょうか。もちろんイエスとの出会いがそこにもあります。復活後の弟子たちと共に、私たちも復活のイエスと出会います。もしかすると、ある意味でヨハネ伝は、最初からその復活のイエスが働いていたのかもしれません。ロゴスがあったと冒頭で告げた時点で、復活のイエスを私たちに突きつけているのかもしれません。
 
そうなると、いったいヨハネ伝はどういう時間軸でストーリーが展開しているか、訳が分からなくなります。助け主が寄越されるとか、悲しみが喜びに変わるとか、いったいいつのどの時点であるのか、分かるようで、よく分からなくなってきます。私たち現代人が想定する時間の直線の中に位置づけること自体が、どだい無理であるように思えてきます。
 
イエスが伝える関係というのは、父なる神とイエスと私たち人間のつながりです。それらは一直線につながっていきます。イエスが、神と人との間をつなぐ役割を果たします。これを聞いて弟子たちは、もはやたとえでないから分かった、と返答しています。本当に分かったのでしょうか。それとも、今私たちにこの説明がぶつけられ、信仰を告白せよと迫られているのでしょうか。
 
弟子たちは「信じます」と告白することになります。イエスはこれに対して、「今信じるのか」と尋ねました。ギリシア語でたった2語です。疑問文であるかどうかすら確証がありません。「今ようやく、信じるようになったのか」は、解釈による訳です。しかし、それだと弟子たちだけの出来事になります。もし今の私に向けても問いかけているのだとすれば、「あなたはいま信じているか」と読んでよいことになります。
 
そうです。弟子たちにだけ問われた、昔話のように見るべきではないと思うのです。もう、時間軸はぐちゃぐちゃです。ヨハネ伝は、永劫の昔から永遠の未来を取り巻く神の出来事が、いまここにいる私に関わってくる壮大なファンタジーとなっています。これから先のことも書かれているし、それがすぐ実現することにもなっているし、読者がこの言葉に出会ったその時になることもあります。神はもう共にいて、平安も受けている。迫害もあるけれども、これまでも今後も、それに負けることがないという力を注ぐメッセージとなっています。