復活は週の初めの日でした。その夕方に、イエスは弟子たちが隠れて集まっていたその真ん中に現れ立ちました。トマスはその場にいなかったために、その後それを疑いました。記事は8日後だと記します。トマスの疑いの日ではなく、イエスが現れた復活の日の8日後です。弟子たちは再び閉じこもって、しかし集まっていました。これもいまの日曜日、主の日の出来事でした。
 
再び、鍵を掛けられた部屋の中にイエスが真ん中に立っていました。そして前週と同じように「平安あれ、諸君」と挨拶をします。イエスはいまも、主の日に弟子たちが集まっていると、その真ん中に立ちます。毎週、礼拝の場に共にいます。私たちも礼拝毎に、互いに「平安あれ」と呼び交わしたいものです。また、鍵を掛けていても、イエスは私たちの心の戸をものともせず立ち入ることができます。こじ開けるのではありません。現れて立つのです。私たちが気づいていなかったとしても、すでにそこに立っているのです。

その時イエスは今度は、すぐさまトマスに向けて言いました。まずトマスです。つまり、見ていないから自分とは関係がない、と思っている現代の私たちに対して、イエスはいきなり突きつけてくるのです。その指と手を当ててみよ、おまえが考えたように直に触れてみよ、と。告げていた疑いを一つひとつ取り上げて、望むとおりにやってみよ、と迫ります。
 
「信じない」と言い張っていたその思いのままでいてよいはずがないではないか、とイエスはぶつかってくるかのようです。信じる者となるのだ、と誘います。イエスはいったい、どんな表情をしていたでしょうか。互いにそのイメージを発表し合うと、面白いかもしれません。それぞれの信仰の味わいが現れるのではないでしょうか。
 
トマスは、わが主わが神、と応えます。ヨハネ伝は、この20章で元々終わっていた、と理解されています。人間的知性からして、そうとしか考えられません。となると、ヨハネ伝の目的は、私たちがこの告白へ導かれることであったはずです。信じる者となれ、と言われ、わが主我が神、と告白するのです。
 
後世の私たちは、トマスと同じように、復活のイエスのからだに触るどころか、見ることもできません。それでも、見ないにも拘わらず信じるならば、それは幸いである、とイエスは告げてこの場面を終えるのです。マタイ伝の山上の説教で、幸いなり、と並べるあの口調と同じです。福音書のイエスが投げかけるのは、信じる者への幸福・祝福のメッセージであったのです。それは、神の子キリストと口で言い、永遠の命を受けることだったのです。