「聞け、イスラエルよ」と始まるこの箇所は、ユダヤ人が愛唱する、という域を超えて、祈りはこれがなければ始まらないといえるほど、すべてのユダヤ人の心に刻まれていることばだそうです。これに続き、約束の地に導き入れる主の業を予め見せてもらっているという設定です。どうやら後の時代に編集されたことは確実ですが、なかなかの配慮と指摘に満ちています。
 
約束の地で民が手に入れたものは、人間自身の力によるのではない。そのことを、一つひとつ言い聞かせるように重ねて伝える手法がヘブライ文化のようですが、このことで、エジプトから脱出できたことを常に頭に置くように、と教えています。かの奴隷の境遇から救った神を忘れるな、というのは、自分のスタートの位置を棄てることがたいへん危険であるからです。人間は、すぐに慢心し、自分が偉いから成功した、と思いがちなのです。
 
しかしそもそも戒めというものは、それができなかったからこそ存在するのであって、誰もが守り従っていることは、わざわざ法には定められないでしょう。実のところイスラエル民族は、異教の偶像になびいていったのでした。神はそのため「熱情の神」であることをぶつけてきます。「妬みの神」です。人にとり、この感情は人間関係を破壊するものとなります。自己愛や慢心の原理があるとき、やがて現実の現象となるからです。その妬みが、ひとたび神が主体となりると、人間に対する神の真剣さを伝える手段となります。
 
この神が、民の中心にいるのです。エジプトから雲の柱・火の柱となって民を導き出した主は、時に怒りを灯としてさえ、導こうとします。でもそれが燃え広がると、焼き尽くされ、地表から滅ぼされることとなってしまいます。申命記はこの直前に、十戒の記事を掲載しています。その中のより根本的な部分が、ここに繰り返され、念入りに民の心に注入されていくのです。
 
この法は、適用上、気をつけるべきことがあります。主を試すべからず、という原理が法全体を防御していなければなりません。これは十戒の中の条文ではありません。だから見落としがちなのですが、イエスは悪魔の誘惑において、この観点を根底に構えていました。憲法にも、その憲法自体を扱う前文がありますが、十戒にも、実はそういう役割を果たす宣言があったと見てよいのではないでしょうか。
 
これは契約でした。人間に守れと神が迫るばかりでなく、神は神のほうで、民を守る約束を貫きます。人間がこれを守るならば、敵を主が散らすと言います。かの土地で、幸いを得ることを約束するのです。これは新約聖書では「神の国」を彷彿とさせます。念を押しますが、そこには、人の手で成したなどと誇れるようなものは何ひとつありません。神に従うならば、徹底的に守られるというだけです。どんな敵も、襲いはしないのだ、と。