FEBC(キリスト教放送局)「HANGOUT!」
素朴な疑問や感じたことを呟く若手の声は、偉い先生のトップダウンとは違う味がありますが、本日は「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16)について。御霊に「酔って」いるようなことはないか、という問いかけは新鮮でしたが、気になって原典を開くと、「霊(与格)+歩け」でした。
放送は新改訳。「によって」は解釈ですね。邦訳はその他「霊の導きに従って」が、新共同訳を含むカトリック寄りの解釈でした。あとは、「御」があるか、ないか。もちろん原文にはありませんが。
問題は与格。日本語で言うと、 霊「に」「で」などに近いわけですが、与格そのものからすると、霊に属し霊に伴うこと、霊を手段とすること、霊と時空を共にすること、そんなニュアンスを感じることができるような気がします。
私たちは人生を歩いていく。それぞれの道を、それぞれの責任を担いつつ歩く。主語・主体は私です。私が生きていくその中で、霊が共にいてくださるようにしよう、霊が属する生き方をしよう、霊を生きるために必要なものだと考えよう、その霊といつも一緒にいよう、そんなふうにパウロが提言しているというのは、確かにそうでしょう。
ここでは、肉の欲に支配されないように、という知恵です。肉というのは私たちも思う肉体的という意味よりもむしろ、精神的に自己中心的なあり方を指すものと思われますから、言うなれば自分が正しいと主張する心から起こる様々な現象を言い当てることができるものと見なされ得ます。「霊(与格)」は、それを打破するもの、それに負けず、愛・喜び・平安・寛容……という善きものを生み出す原理となります。
私はどうしても、ここで、主語・主体を私にしないで読みたいと考えます。私が歩いていくとき、霊が主語・主体として、霊が共にあること、霊がこんな私に寄り添っていることを感じずにはおれないのです。よちよち歩きの幼児が自分の力で歩いているようで、親は当面手出しをしませんが、転びそうになるとちょっと手を出して助けたり、こっちだよと進むべき方向を修正したりするように、霊がその都度見えない形ででも私の歩みを助け、方向付けてくれている、そういう情景を思い描くのです。
親を信頼しているからこそ、よちよち歩く。人間は、せいぜいその程度の存在だと思いつつ、親が見ていてくれる故に、なんとか進んでいけると感謝しつつ、神の霊がつねに寄り添う形であることを弁え、またその霊とつながり続けていたいと願います。