だからまた、自分のことを知る社会の中では、
行動が強く抑制されるという構造があった。
他方、自分が知られない社会では、
振る舞いを恥とは感じない感覚も持ち合わせていた。
歌詞の中で「誰も知らない町へ行きたい」などとよく歌われたが、
自分を知る人がいない町へ行けば、
自分の過去は封じられている、という背景の故であった。
 
農耕文化からこれを考えることもできる。
集団で作業をしなければならないとき、
異端は排除される。
皆と協力しなければ生きていけない。
だからまた、ひとと違うことは、許されない。
個人主義を通す空気はそこにはない。
 
人目を気にする。
それが日本の文化にあったとすると、
誰もが自制する、それが当然の前提となる。
ひいては、自分勝手なことはなかなかできないことになる。
 
出る杭は打たれる。
杓子定規。
我を張る。わがまま。
 
他人と違い我が道を行こうとする者を非難する言葉は数多い。
付和雷同のように他人に合わせることを戒める語は外来語だ。
寄らば大樹の陰というのは、悪く言うための言葉ではない。
世知辛く生き延びるときに使う語である。
 
日本の文化の中に、
人の顔色を見ることが徹底している。
相手の顔色を見ながら、
最後に自分の意思とは反対の結論に覆して言うことが可能な言語なのだ。
 
それは、表向きの対立を回避し、
皆に合わせていく動きをつくる。
流れができたら、もう誰も止められない。
これが日本の歴史の常であった。
 
近年、子どもたちは、
自己主張を促されている。
あるいは、親が、人に合わせないでよい、と教えている。
良い面もあるが、日本語や日本文化との齟齬が感じられる。
どうか歪まないでほしいと願う。
 
そしてまた、
このアンバランスな時代の中で、
単純に日本人が優れている、という思い込みが
まかり通ることのないように、と願う。