日本人の倫理性の高さは
世界でもよく知られることとなった。
不幸ではあったが、
震災の中で犯罪が横行しなかったことは、
世界中を驚かせた。
明治以前にも、
西洋人は驚いていた。
アジア進出を果たしたヨーロッパ人は、
庶民の道徳性や文化性に舌を巻き、
これは野蛮人扱いをしてはならない、と
本国にも通知していたという。
おそらく日本史・世界史を繙いても、
その傾向は否めまい。
そして日本社会は、
なんだかんだ言っても、世界的に
平和で安心して暮らせる社会として
相当に先進的だと理解されている。
確かにそうだと思う。
このことが、
一部の国粋主義者を奮い立たせる。
だから日本はすばらしい、
その日本人の先人を悪く言ったり
自虐的な言動をするのは非国民だ、と叫ぶ。
日本人社会が
比較的平和であること、
自分を控えることなどは、
確かにその通りだと思う。
だが、それを倫理性が高い、善人だ、価値がある、
そのように進展的な論理で押していくことには疑問を感じる。
たとえば、
旅の恥はかき捨て、という言葉がある。
もちろんこれは良い意味で用いることができる。
恥ずかしがらないで、思い切って行動しよう、というかけ声だ。
だが、他方では、
どうせ知らない人の社会であれば、
横柄な振る舞いをしても構わない、という意味で
使う人がいるのも確かだ。
日本人がどうして自分の行動を抑える傾向にあるか。
それは、他人の目が抑制している面があると思うのだ。
「ほら、ひとが見ているよ」
「みっともないじゃないの」
これが子ども時代から、私たちを抑える働きをなしていた。
その事柄が悪だからしてはならない、というのでなく、
人に見られるからしてはならない、という筋道がそこにある。
(続く)