「信仰」という言葉がだんだんぴんとこなくなりました。新約聖書だと、その原語を、文脈では「信頼」とか「忠実」とか「誠実」とか、様々に訳しているのが現状です。どうしてある場合だけが「信仰」なのか。その「場合」を誰が決めているのか。読む人が決めればよいのではないか。
 
「信」に基づいている、というのがパウロの強調であり、ルターの力点であったのですが、それは、まず相手への信頼があってこそ、人が行うことも適切であるだろうし、信頼なしに形だけ行い、行えば信頼ができる、というものではない、というふうに捉えてもよいのではないでしょうか。
 
ラオディキアの教会宛の手紙で、「誠実(忠実)で真実」なのがキリストだとあります。これらは「信にして真」という言葉です。私たちは望みをもっています。世界が、信頼のおける関係にあり、真実がなしとげられ、愛によりつながり、命が輝くことを。これらがひとつに結びつくのがキリストなのです。
 
さらにいえば、信にして真なる証人こそがキリストです。キリストは、これらが夢物語ではなく、本当にありうることだと証明しました。また、証人は命をかけて証言するために殉教を表す語にもなっていきました。まさにキリストはこの証言のために死んだのです。
 
しかしこれらが存在するために、死んで滅したのではなく、神により復活させられました。こうして世界は絶望する必要はなく、真実がいまも生きていること、これからも生き続けて永遠であるということを、キリストが証言していることになります。