幼子を次々と殺害したヘロデ王は、残酷だ、と評されます。また、神はなぜこのような酷いことを願いつつ放っておかれたのか、と思うのも自然な感情でしょう。しかし、そのように思うとき、私たちはどこにいるでしょうか。遠くからこの事件を眺めているだけではありませんか。私はヘロデとは違う、という前提で、自分を例外として恰も神のような視点で、傍観していませんか。
 
もし「このヘロデは、おまえの姿だ」と突きつけられたとしたら、どう神に応えるでしょう。私はその問いに、恐れおののくのです。人を次々と殺し葬ったのは、おまえではないのか。人を裁き、心で憎み、排除し、いなければよいのにと呪い、あるいはおまえなどどうなってもよい、と放任し、無視し、切り捨てていったのは、まさに私の姿であったのです。
 
誰の心の中にも、ヘロデは居座りやすいのです。そして、それは自分だけは違う、と安穏としている者の心こそ、このヘロデの餌食になります。自分は正しい、自分だけは例外的にこれを行ってよいのだ、と自分に言い聞かせ、正義の名の下に、とんでもないことをしでかすようになるのです。そして、そのことに自分では全く気づかなくなります。聖書のことばでさえ、それを自分だけは正しく適用している、自分は神に従っている、自分は神に奉仕している、と自認する者と固まっていくのです。
 
私の中のヘロデ。それは確かにありました。罪の中にあった自分は、その時にはそれとは知りませんでした。イエスに出会ったとき、光を知ったとき、自分は罪の中にいるのだということが初めて分かりました。それは後から見れば、聖霊により気づかされたと説明できます。しかも、そのヘロデは実は幻影だと分かります。すでにキリストが、十字架にそのヘロデを共に磔にしているからです。クリスチャンは、それを信じた者であったのです。