キリスト教会の講壇に立つ者が
みな、神のことばを伝えているとは限らない。
いや、殆どは大丈夫である。
だが、私は、悲惨な例を見た。
神の立てた者を悪く言うな、との戒めもある。
しかし、目を覚ましていることが必要だ。
黙示録ならずとも、
偽りの者が現れることが予告されている。
誤りに導くものには、二つの型がある。
ひとつは、明らかに反発を感じさせる、
大袈裟なことを掲げるタイプだ。
そんなことはない、と皆が反発する中で、
「いや、それも一理ある」と思う人間心理を突く。
他人の気づかないことに気づくことに優越感を覚えるからだ。
そうして、99の嘘の中にある1の真実を大きく取り上げ、
それが支持されていくようになるのである。
もうひとつは、
分からない形で少しずつずらされていくものだ。
一見、真実のように見えることで、
「それもそうだな」と思わせているうちに、
しだいに、とんでもない領域のことを
真実だと思い込まされていくのである。
さも尤もらしいことを口にはしている。
しかし、よく聴くと、何かしらおかしいのであるが、
気づきにくいのだ。
私の知るその例は、後者である。
実のところ、その人は神を知らない。
神から遠いところで、聖書を傍観しているだけだ。
聖書から話をするとき、
聖書には「……とある」と次々と挙げていきます。
すると、さも本当に聖書がそのように言っているかのように
聞こえてしまうのであるが、
当人は聖書をひとつの書物として眺めているだけで、
自分の問題として聖書から何かを受けているということはない。
つまりは、
聖書の神と出会っていないのである。
(続く)