当事者でない私がとやかく言う問題ではない。
だが、大川小学校についての裁判とその判決は、
痛々しくてたまらない。
子どもたちとその家族への同情や共感の声もある。
しかしそれが大きくなると、今度は、
教師たちへの非難の言葉が酷い、という反動が巻き起こる。
だが、無関係な者がとやかく言うべきではない、と
私は考える。
それは、無関心を決め込むという意味ではない。
また、その非難の声についての背景も見なければならない。
教師たちの
――おそらくその一握りの力ある声によってだと思われるが――
判断の甘さやミスによって、
津波に巻き込まれたという点が裁判の主だった争点であったかもしれないが、
それだけではきつい言葉が次々と出てくるものではないのではないだろうか。
もしそれだけで非難の言葉が飛ぶのであれば、
それは言い過ぎだ、といった傍目も、まだありうるかもしれないと思う。
しかし、この津波の後、
学校側あるいは行政側と言ってもよいだろうか、
なんとか責任を取らなくて済むように、と
いろいろなことをやってしまったのだ。
これは私には経験上よく分かる。
学校が公的な存在である側面を見せると、
必ずこれをするのだ。
人間なら、そうだ正直にしなければ、と
誠意を見せる人もいるものだが、
学校というところは、
とにかく責任が自分にはない、と
人間的には信じられないような画策を突っ走り、
また、押しつけてくるところなのだ。
共に亡くなった教師たちに対して
罵詈雑言を、原告側はぶつけているという図式ではないはずだ。
事後の対応の、この非人間的な画策が、
不信感を招いたという背景の意味が大きいのではないかと推測する。
被告側は、なんとか、
津波が予想できなかった、という点に争点をまとめたかったが、
そもそもこの裁判を招いたのが、
純粋にそこではない、というところが、分かっていたはずである。
責任逃れのために様々な不適切な対応をくり返した点こそが、
最も問題であることを知りながら、
それは中心にしようとはしたくなかった。
今回の裁判は、だがそれを裁判所側が含んで考えた、
という結果ではなかったかと見られる。
それでも、やはり門外漢であり第三者である私のような者が、
とやかくどちらがどうとか言うべきではない。
勝訴であっても、悲しみは変わることはないのだ。
ただ、これを機に、広く、
学校という行政機関は、
どういう考えをもつものであるのか、
人々が弁えることができたら、
そして学校がそういうものでなくなっていく方向に進むとしたら、
まだ未来が作られる可能性を期待できるかもしれない、と思う。