聖書を引いてくる。
信仰の姿勢として、すばらしいことだ。
 
だが、気をつけないといけない。
人には、誘惑が来る。
誘惑というのは、
自分でそうと判断できないからこそ、誘惑なのである。
いくら警戒していても、
引っかかるから、誘惑なのである。
 
まず、自分で意味を限定してしまう虞がある。
つまり、文脈というものを無視して、
たとえばパウロが言っている言葉を、
パウロが描いている場面で使うのでなく、
自分が思いつく場面にあてはまてしまうのである。
 
そうすると、
パウロの言葉や神の言葉が前提にあるのではなくて、
自分の思いつきが正しいということを根拠づけるために、
聖書のことばを手段として利用していることになる。
 
また、聖書のことばを、
相手が悪いということを指摘するために用いる誘惑がある。
基本的に、
神と自分との間にそれらのことばはあると見たらいいと思う。
神が自分に対して何を語りかけ、
どのように導くか。
自分が何かを判断したり決定したりするときに、
どうすればよいのか。
いや、基本的には、
おまえは神の前にどうであるのか、と問われる書だと思うのだ。
 
しかし、聖書にこのように書いてあるが、
あの人はこれに従っていない、
ほら見ろ、聖書にあんたは反しているじゃないか、
だからあんたは悪いのだ、
このように思う誘惑が、人間にはつきまとうのである。
 
どちらの場合も、
結果からすると、たいへん悲惨なものとなる。
だがまた、
自分がそのように使っているということには、
人間、気づきにくい。
そういう自分が、自分では見えないのだ。
 
誘惑とはかくも恐ろしいものなのである。