ではそうだから、
信仰というものは個人的に感情や感覚に基づくだけのものか、
そんなふうに言ってしまうのも乱暴であろう。
ただ、
ひとりひとりが神からことばを受け止め、
それを自分の生の中で精一杯生かそうとすること、
さらにいえば自らがそのようにして生かされていること、
そうしてその人の時間が使われていき、
世界の中で行動していく、ということを
神が使命として与えているとすれば、
ひとりひとりの生き方はそれぞれが充実するのではないか。
統一的な理論が構築され、
これこそが聖書の真理だ、と掲示することが
もしも神学の務めであると確信していたら、
それはもはや聖書の神の求めるところではないと考える。
なにより、そうした主義を徹底して非難し、
そうではないぞ、とイスラエルの地を歩んでいったのが、
イエスという方ではなかったのだろうか。
イエスは何をしたと書かれているか。
そのことばと生涯は、
それと出会った私に、何を響かせるのか。
私は何を受け止めればよいのか。
イエスのことばに聞き入るのか、
それとも自分で建て上げた理論を真理として他人に押しつけるのか、
どちらを選ぶべきかは聖書が自ずから告げている。
哲学の歴史を学ぶのは悪くない。
でないと、神学という建物に酔いしれて、
人間の思想が世界を支配するかのように、思いなしてしまいかねない。
それを弁えたうえで、
神学を学ぶというのも、もちろん悪くないのである。