社会的貧困という言葉が出てきている。
貧困とどう違うのだろう。
だが、いまそれに拘泥しないことにする。
案外、その貧困の基準に適合していても、
困難を覚えていないという人がいるかもしれない。
我が家は金銭的には大したことないが、
贅沢をしているわけではないので
困り果てているということはない。
主の山に備えありという程度である。
教会の牧師一家というのは、
日本ではそういうところが多いのではないか。
それはそうと、
福音書の時代と
現代の貧困を比較するのは難しいとは思うし、
かつての地の民の身分的な扱いや人権意識を考えても
同一レベルで議論することもできないとは思うが、
ふと考えることがある。
福音書に描かれるイエスが
現代のこの社会的貧困を目の当たりにしたら、
どう判断し、どう動くだろうか、と。
というのは、
それを実践するように、
キリストの弟子たちは命じられているからだ。
真っ先にその困窮している人のところに
助けになろうとする、
あるいはそういう人が助けを求めてくれば
飼い主のいない羊のように憐れみ云々、という展開を思う。
事実、そういう活動を懸命にしているグループもある。
頭が下がる。
しかし、地震や洪水などの被災者、
謂われなき不幸に絶望している人々のところに、
すっと飛んでいくというところが、
キリストのしもべの仕事でもあるような気がして、
なかなかそれのできない自分が歯がゆい思いもしている。