礼拝の様子を
インターネットで公表している教会がある。
プラシバシーの確保など難しい問題があるが、
気にしているところをわりとよく見る。

保守的な礼拝形式のところもあるが、
それがどうというつもりはない。
問題は、その教会の講壇で、
「これがこの教会の告げる福音です」という意味で
語られる説教である。

もちろん、話の上手い下手ということが大切なのではないし、
面白いかどうかが判断の基準にもならない。
そこで語られているのが福音であるのか、
いのちがあるのか、
神のことばがはたらいているのか、
そのあたりが、説教の説教たるところであろう。

日本語力という問題もあるが、
この説教者は、何を言っているのだろう、と
分からない教会がある。
話の筋がつながっておらず、
ただあちこち聖書を引用するけれども、
どうそれがつながるのか、さっぱり分からない。
説教の前半と後半とで、
どう考えても矛盾することを言っていることもある。

その日の説教では、
神の霊は人の心の中にはない、
みたいなことをしきりに言っていた。

次に見た教会では、
人の心の中に神の霊が働くことが語られていた。
申し合わせたように、さきほどの問題の解答が、
こちらで言われていたように見えて驚きだった。

もちろん、ひとが神になるわけではない。
ひとが失敗をしないとか、良い人間になるとか、
そういう意味ではない。
だが、神の霊は間違いなく人にはたらく。
これをためらう説教者は、
説教者自身がそれを知らないことを物語るにすぎない。

その意味で、説教はこわい。
当人の信仰や体験が、
おのずから現れてしまうからだ。

話せば話すほど、
自分は救われていません、と
証明するような説教さえ、あるのである。

良い説教とか、悪い説教とか、
そういう価値観をもつつもりはない。
神のことばが語られているかどうかである。
神のことばがはたらいている限り、
すべて良い説教と言うほか、ないではないか。