「目的」ということについて、
少しばかり考える機会があった。
日本語だと、様々な意味で使われるし、
たとえば英語でも、様々な使い分けができるようだ。
最終的な目的というとき、
日本語なら「究極の目的」のように形容するが、
英語だと「End」の一言でよい。
逆に、このエンドの系列に現れる他のすべては、
「手段」ということになる。
だからカントは、
人を手段として用いるな、人は目的だ、と熱弁を揮った。
ひとを騙すためには、
この目的をごまかせばいい。
「君のためだよ」と言えばいい。自分のためであっても。
「人々のためにはたらきます」と言えばいい。
人々を手段に使う気持ちすらなかったとしても。
悪意から、そのようにする人もいる。
だが気づきつつ、それが世の中さ、と
自己欺瞞をしながらそのようにする人もいる。
さらに具合の悪いことがある。
自分では「神のために」と言いつつ、
そうでないことに自ら気づいていないというケースである。
エンドは何であるのか、意識していきたい。
体裁のよいことを言って自分を美しく飾りたいとき、
実は自分は自分をこそエンドとしていないか、
自分で問い直したいものだと思う。
非常に怖いことなのだが、
「神のため」「聖書にあるから」という建前を告げておきながら、
自分の言いたいことのために、
聖書を手段にしたり、
神をもその手段に使ったりということが、起こりうる。
(続く)
少しばかり考える機会があった。
日本語だと、様々な意味で使われるし、
たとえば英語でも、様々な使い分けができるようだ。
最終的な目的というとき、
日本語なら「究極の目的」のように形容するが、
英語だと「End」の一言でよい。
逆に、このエンドの系列に現れる他のすべては、
「手段」ということになる。
だからカントは、
人を手段として用いるな、人は目的だ、と熱弁を揮った。
ひとを騙すためには、
この目的をごまかせばいい。
「君のためだよ」と言えばいい。自分のためであっても。
「人々のためにはたらきます」と言えばいい。
人々を手段に使う気持ちすらなかったとしても。
悪意から、そのようにする人もいる。
だが気づきつつ、それが世の中さ、と
自己欺瞞をしながらそのようにする人もいる。
さらに具合の悪いことがある。
自分では「神のために」と言いつつ、
そうでないことに自ら気づいていないというケースである。
エンドは何であるのか、意識していきたい。
体裁のよいことを言って自分を美しく飾りたいとき、
実は自分は自分をこそエンドとしていないか、
自分で問い直したいものだと思う。
非常に怖いことなのだが、
「神のため」「聖書にあるから」という建前を告げておきながら、
自分の言いたいことのために、
聖書を手段にしたり、
神をもその手段に使ったりということが、起こりうる。
(続く)