旧約聖書では、
神に逆らって他の偶像を拝む様子を、
しばしば女の姿で描くようにされていた。

夫の愛を棄て、他の男に走ること。
不倫というと聞こえがどこか美しいかもしれないが、
売春だとか淫売だとか、
見にくい言葉はいくらでもあり、
実質それを指しているものと見なされた。

もちろん、旧約聖書の中にも、
信仰の勇者のごとくに女性が描かれることがある。
むしろ猛者として、
敵将を殺害したというような話もある。
女預言者も活躍するし、
子を求めて祈る信仰が祝福されもする。

だが、たとえがよくない。
ホセア書の印象があまりに強い。
箴言の中にも、醜い描かれ方がなされていることがある。

福音書ではどうだろう。
女性は、信仰の先頭に立つように記されているように見える。
イエスに従っていた女性たちがふんだんに描かれる。
男の弟子たちは逃げ出したが、
女は付き従っていたように窺える。

しかし、新約聖書でも、黙示録になると、
再び女が悪の権化のように描かれる。
大バビロンを表すであろう女の姿の醜さは限りない。

聖書文学は、男の手を通して記されていたと思われる。
男は、女を、
憧れの対象としても描くが、憎むべき悪としても描く。
西欧中世の女性崇拝ムードも、
その実女性虐待の裏返しだと言われている。

こうした中で、イエスが、ユダヤ教の教師として
女性と一対一で話をしたなどというあたりの「凄さ」を、
私たちはもう少し大きく取り上げてもよいのではないか、
と思うのだが、如何だろうか。