教会は、比較的、いいところだ。
悪意から人を騙そうとすることはまずなく、
善人であろうという意思から
何事も行われていくのが建前だ。
自分の心の不純さまでが、
自らへと語りかける神により窘められ、
善くあるべきだという方向性が根底にある。
だが、それは、
そのままそこが理想の世界であるという意味ではない。
時折、それを期待して教会に来て、
ここも世間と同じではないか、と
失望する人もいる。
その気持ちは、分からなくもないが、
現実としては、正しい期待ではない。
かといって、
教会もしょせん人間の組織さ、と開き直るつもりはない。
そこは確かに神の宮である。
信仰的な言葉を使うと、聖霊がはたらく場所である。
目に見えない空気が――神の息が――導く。
ということは逆に、
そうでない、見えない何かが
偽りの神として働く可能性もある、ということになる。
たとえば危ないのが、
聖書のお勉強をすればいいのだ、と確信している人だ。
「信じる」というのは、
聖書を読んで、それに「うんうん」と肯いていくことだ、と
理解しているとなると、かなり危険である。
自分はここに真理を見つけた、と思うこと自体が悪いのではないが、
いつの間にかすり替わる。
自分が、理想の世界の主人になっていくのである。
聖霊がはたらくというのは、
神が原理であるということである。
しかし、上記のまずい例においては、
いずれも、人が原理になっている。
あるいは、人が原理にすり替わっている。
このすり替えは巧みであって、
誰しも簡単に騙されてしまう。
そうならないようにするには、祈りしかない。
自分に死に、神が生きていることだけを
見つめ、その原点に
つねに戻るようにするしかないのである。
受洗から29年、
実りらしきものは、さして見当たらず。
悪意から人を騙そうとすることはまずなく、
善人であろうという意思から
何事も行われていくのが建前だ。
自分の心の不純さまでが、
自らへと語りかける神により窘められ、
善くあるべきだという方向性が根底にある。
だが、それは、
そのままそこが理想の世界であるという意味ではない。
時折、それを期待して教会に来て、
ここも世間と同じではないか、と
失望する人もいる。
その気持ちは、分からなくもないが、
現実としては、正しい期待ではない。
かといって、
教会もしょせん人間の組織さ、と開き直るつもりはない。
そこは確かに神の宮である。
信仰的な言葉を使うと、聖霊がはたらく場所である。
目に見えない空気が――神の息が――導く。
ということは逆に、
そうでない、見えない何かが
偽りの神として働く可能性もある、ということになる。
たとえば危ないのが、
聖書のお勉強をすればいいのだ、と確信している人だ。
「信じる」というのは、
聖書を読んで、それに「うんうん」と肯いていくことだ、と
理解しているとなると、かなり危険である。
自分はここに真理を見つけた、と思うこと自体が悪いのではないが、
いつの間にかすり替わる。
自分が、理想の世界の主人になっていくのである。
聖霊がはたらくというのは、
神が原理であるということである。
しかし、上記のまずい例においては、
いずれも、人が原理になっている。
あるいは、人が原理にすり替わっている。
このすり替えは巧みであって、
誰しも簡単に騙されてしまう。
そうならないようにするには、祈りしかない。
自分に死に、神が生きていることだけを
見つめ、その原点に
つねに戻るようにするしかないのである。
受洗から29年、
実りらしきものは、さして見当たらず。