「聖書はこういうものである」
言い切ってしまう自信は、私にはない。
「聖書のここは、こういうことを言いたいのである」
断言する自信は、私にはない。

というより、言えないと思う。
言ってはならないと思う。
それは、自分を神とすることだ、と
私は感じているからだ。

聖書が神の著書であるのならば、
著者の意図をすべて知るということは、
自分が神と等しいか、神以上の者であると
言うようなものではないだろうか。

言えるのは、
「聖書はこう言っていると私は受けとめた」とか、
「聖書がこう私に呼びかけているように聞いた」とか、
そういう、自分への呼びかけとしてなら、
よいのではないか、ということくらいである。

ネットには、時折、
自信に溢れた声が飛び交う。
聖書はこれこれである。
信仰は何々である。
私には、とてもそんなに簡単に言う心はない。

パウロほどの人になると、これがけっこう言える。
だから、私たちはパウロにはなれないし、
パウロの手紙が神の言葉だと言われる所以である。
いわば、特別なのである。

しかし、そういうパウロの考え方に不信感をもつ書も、
新約聖書の中にあるように見受けられる。
どうも、パウロの考えとは違う面もあるのだ、と言いたげな。

いわば、パウロの手紙を神の言葉と全面的に受け容れないのだが、
結果的に、どちらも神のことばとして
新約聖書に入っているとなると、
神の度量の大きさというものを覚える。

罪人たちは滅びるのだ。
クリスチャンは救われている。
そんなことをほざきながら、
健気で真摯に人を助けている人を指さしているような真似をしたら、
まさに、イエスの敵のファリサイ派に立っていることになるだろう。

救助に懸命な方々を見るたびに、私は、
自分は最低だ、とますます思うしかないのが実情である。