三男も小学校を卒業し、
中学校入学を果たした。
不安が大きかったようだが、
いざ入ってみると、
なんとかなるという勇気が出たようだ。
きっと心の根本には、
楽観的な部分があるのだろうと思う。

新しい環境に飛び込むとき、誰しも緊張するだろう。
慣れ親しんだルーチンとは違うものに出会うのであって、
自分がそれにうまく適応できるかどうか分からないからだ。
そんなとき、やってみなければ分からない、という発想で
ふつう、前進するものであろうが、
中にはなかなかそれができないタイプの人もいよう。

それぞれが個性である。
どれが良いとか悪いとか決めることばてきないが、
自分の態度はつねに悪い、という評価を下しがちなひともいる。
たいていの人は、どこかでそういうときもあるのだが、
いつもそうだと、辛いことだろう。

こうして、私たちは、
自分がこれまで体験したことのない事態に遭遇することについて、
不安や恐れを感じるのだが、
それはなにも特別なことではない。

何事でも知っているわけではないのだ。
しかし、死の経験がないことへの恐れは、
その経験はもう何も感じなくなることであるから、
恐れるに足らずという知恵が、
古代ギリシアの頃から出されていた。
おそらく、各地の知恵者はそのようにも考えたことだろう。

また、宗教的に、
その後の安楽について思い描くことで
恐怖を癒したというのもよくあることであった。

キリスト教とて、その範疇から漏れるとは一概に言えない。
ただ、キリスト教は、空想物語や思いつきではなく、
この地上に実際に歴史としてあったことを基としている。
いくら浄土真宗がプロテスタント神学と類似点があると言っても、
この歴史性においては、完全に異質なものと見る必要があろう。

いま、NHKの100分de名著という番組で、
親鸞の歎異抄が扱われている。
明日がその第二回だが、
誠実な解説で好感が持てる。
テキストを見た範囲でも、その様子がよく伝わってくる。
よい解説は、人の心を掴む。
聖書についても、そのようなことができたらと願う。