まずお断りしておく。
「人をさばくな」という聖書の指摘を、
「人を判断してはならない」と決めつけて戴きたくはない。
そんなことをしたら、
教育というものは成立しなくなる。
「さばく」というのは、
その人が救われているか否かなど、
神が決めることについて、
人の目で勝手に判断を下すべきでない、ということだ。
また、聖書を自分勝手に思い込んで歪めた説教を聞いて、
いいお話でした、などと無理に言う必要はなく、
それは聖書とは違うようだ、と指摘することが、
「さばいた」などと非難されるのもお門違いだ。
その上で、
ある人物について指摘すると、
教会の役員をしているわけではあるが、
どうも考え方がおかしい。
私は様々なタイプの信徒や牧師などを見てきたから言うが、
その人は、救いの喜びを体験していないものと思われる。
(救われているかどうかについては何も判断していない。)
どうにも自己愛が強く、
歌手やアーチストをテレビで見て、
自分のほうが歌が上手い、とか、
あんな歌は誰でも作れる、とか言う。
原発は安全だ、と強く主張し、
神経質に避難して精神的に病んでいるのだ、とくり返す。
政治的判断についてはともかくとして、
どうにも弱い立場の人への共感の要素が欠けており、
どうしてそんなことを言うのか、甚だ不思議であった。
ふと、思った。
人間、できれば汚点や失敗などは、見たくないという心理がある。
それは見なかったことにして、
表面上美しく装いたいと思う気持ちだ。
そのうち、その短所や間違いは、
「なかった」ことだと本当に思うようになる場合がある。
自尊心を守るためかもしれないし、防衛反応かもしれない。
これは、歴史的な事柄の判断についても、
しばしば見られることではある。
とくに自分のしたこと、自分に関わることについては、
まずい点は、なかったことにしてしまう。
えてして、他人のまずい点を指摘するのは敏感であるが、
自分のそれについては鈍感であり続けるわけだ。
振り返ってみれば、
キリスト者には、このタイプは比較的少ない。
小さな悪にもどうしても目が留まってしまい、
それは相手の悪についてもそうであろうが、
自分の悪についてもそうである。
ともかく、これは悪ではないか、とまず考えてしまうのである。
私はそれは当然だと思う。
その見方がないのであれば、
「罪」という認識があろうはずがない。
罪を捉えることがなければ、救いは覚えない。
つまりは、キリストの救いを体験することができない。
(その人が救われているかどうかについては私は言及していない。)
(続く)
「人をさばくな」という聖書の指摘を、
「人を判断してはならない」と決めつけて戴きたくはない。
そんなことをしたら、
教育というものは成立しなくなる。
「さばく」というのは、
その人が救われているか否かなど、
神が決めることについて、
人の目で勝手に判断を下すべきでない、ということだ。
また、聖書を自分勝手に思い込んで歪めた説教を聞いて、
いいお話でした、などと無理に言う必要はなく、
それは聖書とは違うようだ、と指摘することが、
「さばいた」などと非難されるのもお門違いだ。
その上で、
ある人物について指摘すると、
教会の役員をしているわけではあるが、
どうも考え方がおかしい。
私は様々なタイプの信徒や牧師などを見てきたから言うが、
その人は、救いの喜びを体験していないものと思われる。
(救われているかどうかについては何も判断していない。)
どうにも自己愛が強く、
歌手やアーチストをテレビで見て、
自分のほうが歌が上手い、とか、
あんな歌は誰でも作れる、とか言う。
原発は安全だ、と強く主張し、
神経質に避難して精神的に病んでいるのだ、とくり返す。
政治的判断についてはともかくとして、
どうにも弱い立場の人への共感の要素が欠けており、
どうしてそんなことを言うのか、甚だ不思議であった。
ふと、思った。
人間、できれば汚点や失敗などは、見たくないという心理がある。
それは見なかったことにして、
表面上美しく装いたいと思う気持ちだ。
そのうち、その短所や間違いは、
「なかった」ことだと本当に思うようになる場合がある。
自尊心を守るためかもしれないし、防衛反応かもしれない。
これは、歴史的な事柄の判断についても、
しばしば見られることではある。
とくに自分のしたこと、自分に関わることについては、
まずい点は、なかったことにしてしまう。
えてして、他人のまずい点を指摘するのは敏感であるが、
自分のそれについては鈍感であり続けるわけだ。
振り返ってみれば、
キリスト者には、このタイプは比較的少ない。
小さな悪にもどうしても目が留まってしまい、
それは相手の悪についてもそうであろうが、
自分の悪についてもそうである。
ともかく、これは悪ではないか、とまず考えてしまうのである。
私はそれは当然だと思う。
その見方がないのであれば、
「罪」という認識があろうはずがない。
罪を捉えることがなければ、救いは覚えない。
つまりは、キリストの救いを体験することができない。
(その人が救われているかどうかについては私は言及していない。)
(続く)